悪と仮面のルール

中村文則

1760円(税込)

ナノダヨ族との戦い

田中弥生

文学とは何かという問いにはさまざまな答えがあるが、私はそれは人とナノダヨ族の戦いの記録だと思っている。各時代、各国で、人はそれぞれの場所のナノダヨ族と戦う。それは個人の孤独な戦いになるが、その記録を読むことで、人は人類の中で自分だけがナノダヨ的二者択一を迫られているわけではないこと、そう思わせるのがナノダヨ族の伝統戦術なので、その外には人の根に即した言葉の地平があり、ナノダヨ語のほうが実はその地平に咲く徒花に過ぎず、その地平を消せると思うナノダヨ族こそ本質をわきまえない馬鹿であることを確認し、生きる力を得るのである。本書はこの、「~なのだよ」語尾のナノダヨ族との戦いの、最前線の記録だ。

主人公は二十代の青年、久喜文宏。いくつもの企業を束ねる財産家の家に生まれた彼は、母親の顔も生死も知らされずに広大な屋敷で孤独に育つが、十一歳になった時、冷酷な父から、家系にまつわる奇妙な話と、「十四歳になった時、お前に地獄を見せる」という予言を聞かされ、同時にその「地獄」に大きな役割を果たす予定だと父が言う、香織という同い年の少女と引き会わされる。「地獄」とは何か、香織はどうなるのか。危険な父との対決を中心とする、故郷での思春期の物語を「過去」とし、二十代になった文宏が東京で整形手術を受け、まったくの別人「新谷弘一」として香織の今を調査し始める今を「現在」として物語は進む。著者としては初の書き下ろしで、おそらくもっとも長い作品だが、完全な新作というより、これまでの作品全体を収める大きな世界観=フィールドの提示であるような、旧作群の集大成的性格の強い一冊となっている。

他人の思惑やさまざまな事件に巻き込まれつつ、自ら罪を犯す「文宏=弘一」の物語は、たとえばテレビ版「白夜行」に似ており、そこから本書をつめの甘いエンタメと判断する人もいるかもしれないが、この、一般的推理小説にいつもよりよく似ているという特徴には、ある外部要因の影響が感じられる。

本書が講談社創業百周年記念企画、書き下ろし100冊の一冊で、その企画の趣旨の一つが「『物語』の面白さ」であることだ。同企画でこれまで読んだ文芸誌系の他の作家の作品も、本人比で、よりエンタテインメント要素を押し出した、大衆小説寄りの形になっていたが、本書もまた、始めの構えとしてはそういった企画の要請を強く感じるものにな っている。しかしこの作品では、話が進む間に、著者が企画と四つに組み、結果、いわゆる化学反応を起こして、それ無しにはなかった充実感を生む印象がある。おそらくこれは、もともと中村作品に含まれる主題が、そのような企画と著者の関係と相似形だからだろう。つまり、中村の作品とは、第一に、ある種の男性向け言説に過剰に一体化したものとしての私を描くものであり(企画との適合)、第二に、その私に、作品を通して、その世界からの脱却を試みさせる(企画の脱構築)ものだからである。

というわけで、一般的なエンタメとの過剰な一致を示すことから始まる本書の物語は、とにかく盛りだくさんだ。父殺し、密室での近親相姦的性行為、戦争ビジネス、アルコール中毒、薬物乱用、女性監禁(の示唆)、愉快犯的テロ、顔面整形、地下室、双子の兄弟などが、青年マンガ的ガジェットとしての形で総動員され、主人公のまわりに、青年が妄想し、エンタメ商品が提供しうるありとあらゆる「極限状況」を再現している。その物語は「愛と幻想のファシズム」のようでもあるし、「海辺のカフカ」のようでもあるし、永井豪の「凄ノ王」のようでも、ドストエフスキーのようでもある。それに加えて本書が現在のエンタメ言説状況を語るものであるのは、そうして再現された「物語」が作品単体に留まらない点だ。たとえば中村の作品には以前から「孤児たちのサーガ」のような部分が漠然とあったが、本作ではそれが強調され、たとえば「#掏摸{ス/リ}」との直接の関連性が示唆され、横方向に作品を膨張させている。同時に、その広がりに縦=メタ的な方向での逸脱が絡む。あげられている具体的な地名、人名は、中村本人の経歴を思わせ、また文宏が身分を借りる「新谷弘一」のデータは、文宏以上に、過去の中村作品の主人公のそれに近い。つまり本作中では何段階にもわたって、語り手となった主人公が、語られる主人公に変装する、一つ前の自分のふりをして出来事を語る様が窺える。同時にそう語る叙述には冒頭である限界がもうけられており、それらすべてが、新谷弘一が作った、自分は「久喜文宏」だという単純な虚構話である可能性を残している。こうして本作は、本来物語からの脱出のために考え出されたメタ的な手法が、それ自体目的化して逆に物語の外部を消し閉鎖的なメタ=エンタメ空間を作る、その閉鎖性の完成度を競う現在のエンタメ言説全体を主人公が生きる環境として再現している。だが、中村のそれは、自分がそういう閉鎖空間を作れる神=作家であるということを示すために作られた「作家なのだよ」言説ではない。中村は、そういった言説が作る閉鎖空間を過剰に再現した上で、そこからの脱出劇を見せる。そこに感動がある。

人間の感動は、出られないのだよとナノダヨ族が言うところからも、ある種の勘と言葉と知恵があれば人は出られる、出る可能性を次に残せると信じられるところにある。いつも絶対に出られなそうな場所に配置され、そこから初代引田天功ばりのぎりぎりさで脱出したりできなかったりする中村の主人公は、今回は脱出に成功している。そこに光がある。現在ある種の人間の中にはびこる絶望、外部不在のメタ=エンタメナノダヨ族との戦いには、作家によってさまざまなやり方がある。だがその中で、それをそのまま再現しつつ、もっとも卑近な会話語で愚直にそれに立ち向かう中村のやりかたは、前線であると同時に、国語の命の最終防衛ラインにあって、ナノダヨ言語の世に産まれた同世代人の絶望に、生きた部分が一語あれば、ナノダヨからの帰還は可能なのだと語りかけている。