「人生の岐路」という言葉があるけれど、人生というのは、常に某かの岐路に立っているようなものだと思う。今のままでいいと思っても、年は取ってしまうし、人は心がわりするし、時代も変化する。とても大きく環境が変わることもあれば、微妙な変化のときもあるけれど、時間が経過することで絶えず訪れるその変化が、よい方向性のものばかり、ともいかない。なんとかよい方向にゆきたくて、よかれと思う行動を取り、よりよい選択肢を選び取ろうとするのだが、選択をすること自体が苦しい、ということもある。自分から行動を起こすことが怖くなる。そうすると、どうするか。こうなったらいいな、と「願う」のである。「願う」しかない時さえある。いや、ほとんどの「人生の岐路」は、結局のところ自分が望む方に事態が動く偶然を期待する、「願う」にまかせるしかないのではないだろうか。小説『願い』は、「人は願う生き物である」、ということを様々なバリエーションで痛感させてくれる短編集である。
義理の妹に魅かれて献身的につくす兄(「妹思い」)、シングルマザーの母の恋人に戸惑う娘(「つるとくま」)、別れた恋人に草野球に誘われてどぎまぎする三十手前の独身男(「ファウルボール」)、半同棲していた年下の彼氏に突然別れを告げられた四十歳直前の女性(「たくさんの荷物」)など、不条理や不如意を感じている人たちの戸惑う気持ちが淡々と描かれる。ものすごく不幸ではないけれども、自分がいとしく思っている人から自分が思うようには思ってもらえない、報われない想い。様々な年代の男女が描かれているが、皆なんとなくよるべなく、魂の落ち着き場所が見つからず、模索を続けている。そういう状況にある人物を描いた小説は数多あるが、この短編の中の人々は、深刻に受け止めすぎたり、自暴自棄になったり、又は自嘲して明るくふるまったり、など、極端なことをするのではなく、冷静に内部にある痛みを受け入れる。ときにはユーモアも滲ませながら、それぞれの方法で痛みをゆっくりと放出していく様子が好ましく、読後はほんのり清々しい。
分量が短いので、どの話もいきなり始まり、あっさりと終了する。え、もう終わったの、でもこの先どうなるんだろう、どうするのがいいのかな、などとしばらく物語の続きを考えずにはいられなくなる。考えてみれば、誰の心にも結末と呼べるものはなくて、生きている間中、心は「途中」だ。短編ならではの、切り取られた「途中の心」の余白の広がりは、読む者の人生と結びついて新しい奥行きになる。一人ひとりの気持ちの流れの描写が緻密かつ滑らかであるため、そこに詰め込まれた時間がとてもリアル。そのため、余白は遠くまで広げていくことができる。
恋人も、友達も、気持ちという不確かなものだけで結びついている。血のつながった家族でさえも、気持ちが離れれば、生活も分かれるだろう。そんな、一時的に濃密になる気持ちとだんだん薄らいでいく気持ちの波の捉えかたが絶妙だった。気持ちが濃密になるのは、関係がうまく保たれているときではなくて、関係が終わりそうな、別れの気配がしているときであることに気づかされる。
表題作でもある「願い」は、主人公の奈緒の他界した祖母が夢枕に立って、「願いごとを三つかなえてあげるから、なにがいいか、なにをしてほしいかじっくり考えなさい」と言う場面から始まる。そして、一緒に住んでいた祖母が、奈緒とその妹に、生前何度もその「三つのお願い」のことを口にしていたエピソードを回想する。子供心にも気を使って実現可能な範囲の願いを言う長女の奈緒に対して、「一億円ほしい」などと実現不可能な願いを祖母にふっかける妹との対比がおもしろく、あわてる姉とすぐに却下する祖母、悪態をつく妹、と、三人三様の反応が「家族」としての結びつきを象徴していて興味深い。孫娘の興味をなんとかして引きたい祖母と、その厚意にできるだけ応えようとしつつもだんだんうっとうしく思う奈緒、あっさりつきはなす妹、淋しさを噛みしめる祖母、と年月が関係を少しずつ変えていく様が端的に描かれていて切ない。
その祖母が夢枕に立つのは、不倫の恋愛を終わらせたばかりで気持ちがぐらついている奈緒が、祖母の心の支援を求めているからだろう。子供のときに、祖母から与えられたような、大雑把ながらも無償の愛情表現は、大人になると心の支えになる。見返り抜きで自分の願いをかなえてくれる存在を信じること。それは、自分自身の希望を保ち続けることになる。祖母からの生前最後の三つの願いをかなえるという申し出にぞんざいに応えた奈緒は、霊として迎えた祖母に今の願いを託そうとする。
《小さくため息をつき、奈緒は肩にかけたトートバッグを揺らしながら、電器店へ向かう途中の短い橋を渡った。下を流れるドブのような川は覗かずに、きれいな水色の空を見やる。/本当に祖母にお願いしたい三つのことはなんだろうか》
なんでもないようで、心魅かれた場面である。奈緒が買い物をする街には、「短い橋」のわたされた小さな川が流れている。川はドブのように濁っている。そのことは知っていて覗かない。空は晴れていてきれいな水色である。「覗かずに」とわざわざ書くのは、よく覗いてもいることを暗示している。足の下が汚いのは分かっているが、そんなことはどうでもいいのである。こんな隠し技が要所で効いている。
こちら側からあちら側へゆこうと思う。間には川。しかし大丈夫、橋がある。空は晴れている。橋を渡る瞬間に気持ちが一瞬リセットされたことが感じられる。「願い」を願うということは、手のとどかない向こう岸へ心を投げる、ということでもある。安堵は、かなわなかった願いがもたらしてくれたりもするのだなあ、と思った。