恐ろしい話だ。だが、終わりまで絶対に目が離せなくなる。中に、主人公・夢生の同窓生・漱太郎が先生を強姦するシーンがある。偶然これに立ち会ってしまった夢生は、最後まで見届けたいという欲望に抗えない。先生は夢生に「もう、お帰りなさい」と指示するが、夢生は立ち去らない。女に欲情している漱太郎が、夢生の目を釘付けにしたからである。同じ効果をこの小説自体がもっている。
夢生は同性愛者である。彼の高校の級友、漱太郎は、すべての人に対して優しく、完全な正義を体現しており、その上優等生的な嫌味もなく、だから男女の誰からも好かれている。夢生は、しかし、この「ジェントルマン」にとてつもなく胡散臭いものを感じている。夢生は、華道部の顧問の村山先生を漱太郎が強姦するところを目撃して以後、漱太郎を恋するようになる。
漱太郎は、一方では、完全な優しさ、非の打ちどころのない正義を実践しつつ、他方では、気に入った女と次々と――ときに犯罪的なやり方で――セックスする趣味をもっているのだ。女を騙し、自分に対して恋情を抱かせてもてあそぶときもあれば、より直接に強姦に近いやり方で関係をもつこともある。漱太郎の表現を用いれば、彼は、女の(身体と精神の)鍵穴をこじ開けるのが好きなのだ。漱太郎は、この秘密の行為を、あの強姦事件の「共犯者」夢生にだけは語ってきた。高校を卒業し、二人の出会いから二十年ほどの時が経過し、今では漱太郎は結婚もして、子どもももち、エリートサラリーマンになっている。しかし、漱太郎のあの趣味、欲望を感じた女の鍵穴をこじ開ける行為は止まらない。誰も知らないこの行為は夢生にだけ告白されるので、夢生は、その「告解」がなされる自分の部屋を「懺悔室」と呼んでいるが、漱太郎が自分の行為に悔いている様子はない。
小説は、二種類の文体を駆使している。夢生が漱太郎に宛てた手紙のごとき体裁をとっている一人称の文章と、三人称の客観描写によって物語の経過を追う文章とが、交互に登場するのだ。余分な装飾や説明を排した簡潔な文章で綴られ、緊張感は結末まで続く。
今後、多くの論者がこの小説を批評するだろう。私はあらかじめ、回避すべき凡庸な読みを指摘しておこう。この小説が引き寄せかねない凡庸な解釈とは、「表面的には、世間的なルールをきちんと守る折り目正しいジェントルマンが、背後では、邪悪な欲望を抱き、犯罪まがいの行為を繰り返していた物語」として、これを読むことである。このような物語ならば、今までもごまんと書かれてきた。だが、『ジェントルマン』が恐ろしいのは、この二つの側面が対立しておらず、同じひとつのこととして提示されているからである。万人に優しく、まったくの正義を実行しているジェントルマンとしての側面と、女を己の欲望を満たす対象として以外には見ない純粋な悪としての側面は、漱太郎の中でいささかの葛藤も引き起こしてはいない。むしろ漱太郎は、まったきジェントルマンだからこそ、純粋な悪を遂行できたのである。
とすれば、解釈の鍵は、この二側面の内在的なつながりをどう理解するかにある。次のように考えたらどうだろうか。普通「正義」は、愛の単純な拡張形態と見なされている。特定の集団や人だけではなく、すべての人を平等に普遍的に愛すれば、それが「正義」になる、と。だが、よく反省してみよう。誰かが「私は誰をも同じように愛している」と言明しているのだとすれば、その人は、誰も愛していない、ということではないか。
「私はあなたがたすべてを愛している」という普遍命題が真実になるのは、そう語る者が、誰かを――「あなたがた」以外の他者を――憎んでいる場合だけである。「愛」について語っているかに見えるこの普遍命題の真の意味は、むしろ(特定の他者への)憎悪だ。それならば、あのジェントルマン漱太郎のように、排除すべき――憎悪すべき――他者を一切もたずに、「私はすべての人を同じように愛している」という態度をとったとき、この命題が意味するところは何になるのか。それは、すべての他者への普遍的な無関心である。漱太郎は実際、誰をも、どの女をも、自分の欲望にとっていかなる価値をもつかということ以外の観点では見ていない。漱太郎は、他者の他者性に――他者の固有の主体性に――いかなる関心ももってはいないのだ。それは彼の「正義」から来る態度である。村山先生を犯そうとしているのを夢生に見られていることに気づいたときに漱太郎が夢生に向けて発した言葉、「あの、誰の心をも優しく溶かすような調子で」発せられた一言「悪いけど、手伝ってくれない?」ほど、他者(村山先生)への冷たい無関心と他者一般への「優しさ」とが一連なりであることを表現する語はない。
漱太郎にあって、正義の水準と無関心の水準とが短絡している。この短絡において排除されているものは何か。それは「愛(/憎悪)」の水準だ。だが、フロイトが語っているように、排除されたり抑圧されたりしたものは必ず、歪な変形を被って回帰してくる。漱太郎の場合、抑圧された愛は、妹に対する近親相姦的な愛着、妹を愛玩動物のように扱い、囲い込む態度として回帰してくる。
ならば、この小説には、純粋な愛、変形されていない「愛としての愛」は描かれていないのか。否! 夢生の漱太郎への情熱、それだけが純粋な愛である。その愛は、他のすべての者たちへの普遍的な無関心の中から特異的な唯一の他者を際立たせるものであり、小説では「恋」と呼ばれている。
だが、純粋な愛は悲しい逆説の中にしかありえないこと、不可能なものとしてしかありえないことをも、この小説は暗示している。漱太郎にとって夢生は、彼の人生の記録装置のようなものでしかない。つまり、夢生は、普段は、漱太郎にただ「知る者」としてしか関わりえない。無論、彼の知的関心は、恋を特徴づける欲望に裏打ちされているが、それはいつも後景に斥けておかなくてはならない。夢生が愛をまさに愛として表出したとき――それこそ小説の結末である――、その愛は「花鋏」に託される。断ち切るという行為、相手を傷つけ裏切る行為でだけ、二人は結び付く。