パノララ

柴崎友香

1980円(税込)

優れた一人称と渡り合う読者の幸せ

片岡義男

 柴崎友香の長編小説『パノララ』は若いひとりの女性が一人称で全編を語っている。小説の語り手として、この作品のために作者が設定した一人称の女性のすぐうしろに、柴崎友香という作者がいる。内容のすべてはこの作者が書く。主人公は全編におよんで語り手であるという意味において、もっとも中心的な登場人物だが、彼女が語っていくことはすべて、作者によって託されたものだ。すべては作者が作り出し、それを主人公に語らせている。

 しかし、一人称で登場する主人公の彼女は、自分の一人称ですべてを引き受けている。自分がその身を置いている状況のなかで、見る、聞く、喋る、動く、体験する、思う、感じる、なんらかの感情が生まれるのを受けとめる、といったこといっさいを、一人称の彼女は引き受ける。彼女なしでは物語は進まない。すべては彼女のものだ。すべてを彼女が引き受けるのだから、物語られるすべては彼女のものとなる。当然の結果として、物語のすべては彼女のものとなる。文字どおりすべてが彼女のものとなったとき、作者は消えるのだろう、と僕は判断している。書いたのは私です、と作者は現実のなかで言うことは出来ても、書いたことのすべて、つまり現実ではないことのすべてである小説は、一人称の彼女がさらっていく。

 一人称の主人公は書き手である作者の分身だ、という理解のしかたがしばしばなされるが、書き手がふたりいる、と僕はとらえる。そしてこのふたりは、必要に応じて、自由自在に重なり合い離れ合う。小説の語り手である主人公として設定されているひとりの若い女性と、彼女が語る物語を彼女の一人称で書いていく書き手との、ふたりだ。紙の上に文字によって次々に固定されていく小説の言葉とその内容を、ふたりがかりで作り出す。『パノララ』の場合、このふたりがきわめて優れて不可分であることを、僕はまず強調しておきたい。

 小説の言葉とそれが言いあらわす内容とが、不可分なふたりによる一人称として、ひとつのまとまりのあるナラティヴへと、かたちを得ていく。どんなことでも書けるよなあ、と僕は驚嘆する。現実は手当たり次第に小説のなかの世界となる。どんな人物でも書ける。人物にせよ出来事にせよ、過去のディテールをそしてぜんたいを、自在に描くことが出来る。この人物に関して主人公の女性が、なぜこんなことまで知っているのか、という疑問に対する前もってなされる回答として、何度かにわたって断片的に聞いたことをまとめるとこうなる、とでも書いておけば、それで充分だ。誰についてでも、どんな出来事についてでも、自由に書ける。あらゆる未来の予測も可能だ。

 読者がもっとも見逃しやすいのは、現実のなかで拾った断片が人物の台詞へと昇華される様子だろう。せっかくだからひとつだけ、引用しておく。「つけ麺て、食べる度にやっぱり自分はこの濃すぎるダシが苦手で、でもそのうちにおいしいのに出会えるんじゃないかとの期待を捨てられなくて、また食べちゃうんだけどそのたびに普通のラーメンにしとけばよかったと後悔して、そしてスープ割り気軽にお申し付けくださいって書いてあるけど言い出しにくくない?」

 主人公がその一人称によって長編小説をひとつ語っていくとは、どういうことなのか。

 主人公の彼女は、自分が語る物語のなかにある現実のすべてとの、この上なく重要な接点だ。あらゆるものとのインタフェイスである彼女は、すべてを引き受ける。そうであるからには、彼女という人は、じつは恐ろしいまでに強靱でなくてはならないはずだ、と僕は考える。

『パノララ』の主人公である田中真紀子は、強靱とはとうてい思えないような女性として、作中に造形してある。ごく普通のとか、どこにでもいるような、などと誰からも言われるような女性だ。彼女が自分自身について語る言葉、あるいは彼女と知り合う人が彼女について言う言葉を、いくつか引用してみよう。

「真紀ちゃんて、感動とかもあんまりないっていうか、喜怒哀楽がぺたーっとしてるよなあ」

「顔に出ないんです。内面は、動揺してます」

「自分の薄っぺらく貧弱な体格を確かめる。その割に締まりのない足首で視線が止まる」

「顔もうれしいんだか悲しいんだかよくわかんねえし」

「わたしは、しゃべる度に自分がつまらない人間だということがばれてしまうのがいやで」

 彼女は一例として次のように食べる。

「ぬるくて味のしないお茶でメンチカツサンドを流し込み」

 そして次のように思う。

「ラーメン屋ってなんでこんなにたくさんあるんだろう」

 彼女が契約社員として働いている会社については、次のように語られている。

「この小さな広告企画の会社というか、印刷関係のちょこちょこしたことをやっている会社」

「特に今の職場は、年の近い人や友だちっぽくしゃべれる人がいない、誰かに指示されたその人の仕事の一部分をやるだけだから達成感があんまりない」

 この主人公が全面的に作者を助けてくれている。単なる語り手として設定された架空の人ではない。作者とともに小説の言葉に参加する主人公が、目の前にあらわれる現実のすべてを引き受けてくれるからこそ、作者は書いていける。語られた小説は最後にそこに残る結果であり、そこにいたるまでは、主人公があらゆる現実から削り取るものを、作者が言葉にして主人公に返していく。そんなことを僕に信じさせるほどに、作者自身が強靱である、ということだ。

 もっとも大事なのは書きかただ。書きかたが内容のすべてをきめていく。書きかたとは、すべての語りを一人称で引き受ける主人公を作り出す能力のことだ。主人公が持っている、物語の進展や変化のすべてに耐え得る能力が、物語を支える。柴崎友香の『パノララ』を読んで、僕のなかにもっとも強く大きく残ったのは、このことだ。