九年前の祈り

小野正嗣

1760円(税込)

重なり合う祈り

藤井 光

 小野正嗣の作品にたびたび登場する、大分県の「浦」にある集落と、そこに暮らす人々。そこから登場した最新作『九年前の祈り』は、改めてその世界のみずみずしさと、人間が人間であるがゆえの営みに対する真摯なまなざしが心を打つ、美しい小説集である。

 離婚し、精神的に不安定な息子を連れて大分県南部の海岸沿いの集落に戻ってきた女性が、九年前にともにカナダ旅行をした女性の息子が入院中だと聞き、見舞いに出かける話。大学生三人がふと思い立ち、旅行で訪れた海岸でウミガメの産卵に立ち会う話。かつての幼馴染同士であり、今や中年にさしかかった二人の男の腐れ縁。独り身の老女が、代わりに墓参りに行ってくれていた男「タイコー」が抱えた病について知る物語。ゆるやかにつながり合い、奥行きを与えられたそれらの物語は、読み進めるごとに胸を打つ瞬間に溢れている。

 一連の物語の基調を成すのが、冒頭に置かれた表題作である。カナダ人との結婚を解消し、息子を連れて故郷の集落に戻ってきた主人公のさなえが抱える悩みと、カナダの複数言語都市モントリオールを旅行したときの記憶、九年間を隔てたその二つの土地が、入れ替わるようにして語られていく。そこには、近さと遠さの混淆が生み出す奇妙な味わいがある。

 この小説の最大の特徴が、比喩の多用にあることは間違いない。大分から海外旅行に繰り出す女性たちについては、「南国の鳥の群れさながら大きな声でしゃべり散らしていた」という描写をはじめとして、秀逸なユーモア感覚に満ちた比喩が次々に登場する。それとは対照的に、さなえの息子が体全体で感情をあらわにする際には「引きちぎられたミミズ」という比喩が頻出し、空と大地という対比を際立たせもする。

 だがそれ以上に、「九年前の祈り」においては、比喩は現実を多面化するという効果を生んでいる。目の前にある風景に、比喩として別の次元が挿入されることにより、その二者は思わぬ形で接続される。そうして、海辺の静かな風景において、現実と非現実が混淆し、幻想性が生まれて増幅していく。

 そうした表現手法はおそらく、「重なり合い」という主題とともにある。息子との関わりにおいて苦しむさなえと、九年前、カナダ旅行で同じく息子の将来を案じていたみっちゃん姉(ねえ)の姿が重なるとき、そこには過去と現在の隔たりと、何よりも自己と他者の隔たりを越えた重なり合いが起きている。さなえの目の前に幾度か登場する、そこにいるはずのないみっちゃん姉の姿は、そうした境界線を越える出来事なのだろう。

「重なり合い」をもたらすのは、祈るという行為である。必ずしも宗教的なものではなく、祈りと呼べるかどうかも分からない言葉であっても、その瞬間、登場人物たちは他者のために何かを願うことによって、自他の境界線を越えていく。それが島の片隅にひっそりとある無人の神社であれ、モントリオールの中心部にある巨大な教会であれ。目に見える変化ではなく、本人すら気づかないような形で、彼女たちは決定的な一歩を踏み出している。

 そして何よりも、過去や他者との重なり合いという出来事は、物語るという行為そのものにも宿っている。現在において閉ざされているかに見える個人の殻をつかの間、過去に、未来に、そして他者に向けて開くこと。本書の物語は、そんな瞬間をあちこちで垣間見せてくれる。そうして、物語は祈りに接近していく。

 とはいえ、本書は能天気な人間賛歌ではない。「九年前の祈り」では、みっちゃん姉の息子が患った脳腫瘍が基調として提示され、病というその主題は、後続の短篇にも引き継がれていく。他者の病に、人はどう接するのか。他者が抱える痛みは、結局のところ自己とは切り離されたものでしかないのか。「人の苦しみなんて絶対にわからないのだから」と登場人物の一人が考えるように。そして究極的には、生者と死者は互いにとって他者であるほかないのだろうか。病という事態は、重なり合いと絶えず絡み合う「すれ違い」の存在を際立たせている。

 病だけではない。なかなか心を通わせられないさなえと彼女の息子。東京から故郷に戻り、自暴自棄な生活をしている日高誠と、父親の記憶がほとんどないまま大学生になった息子の一平太。登場人物たちの関係には、常に「すれ違い」の影が落ちている。自分と他人の間にある溝、そして何よりも、自分自身と人生の間にできてしまった溝が、届かない思いとして、彼らを苦しめる。

 だからこそ、そうした葛藤の果てに、それぞれの物語で他者に対する願いという祈りが捧げられ、溝を越えようとする意志が示されるとき、単なる心の交流や共感や自己犠牲といった空虚なスローガンを超えた強靭さがそこに宿っていることを、『九年前の祈り』は教えてくれる。

 それと同時に、忘れがたい方言の言い回しの数々と、ときに人懐っこく、またときには豪快でもある登場人物たちが生み出すおおらかなユーモアが、本書全体を貫くもう一つの柱となっている。とはいえ、それは単に「田舎の人情」や物語の味付けという陳腐な図式に回収されるものではない。海岸沿いの集落にも、時代の変化は忍び寄っている。個人商店はショッピングモールに取って代わられ、かつてはいなかった観光客の姿があり、一方では過疎によって無人となった集落もある。また新たなすれ違い、届かない思いが、そこからは生み出されるのだろうか。

 そうした人の時間、物語の時間を包み込む海は、波は、何もかもを同じ時間のなかに閉じ込めようとする。気が遠くなるようなその反復に比べれば、重なり合う時間はいかにも脆く、つかの間のものにすぎない。それがゆえに、『九年前の祈り』に収められた物語は、他者との関わりを捨て去ることのない人間の営みが、ささやかな奇跡なのだと教えてくれる。