死に支度

瀬戸内寂聴

1540円(税込)

第一幕を終えたばかりの〈死に支度〉

山折哲雄

 京都・嵯峨野にある寂庵は、世に知られる瀬戸内寂聴さんの終の住処だ。また、そこを訪れる諸国万民の交流の場であり、大量の作品を生産する寂聴さんの主戦場でもある。

 そこに、思わぬ異変がおこる。その寂庵での全活動を支えてきた五人のスタッフが、庵主にむかって突然辞任を申しでたからだ。執筆、法話、メディアへの出演などに明け暮れる忙しい生活を切りあげ、これからはゆっくりした人間らしい暮らしにもどってほしい、それで自分たちの人件費をすべて返上したいというわけだった。庵主はすでに圧迫骨折を患って、入退院をくり返していた。

 寂聴さんは、よし、ここで「革命」をおこそうと決意する。スタッフ総退陣のあと、若い現代風の新人だけを残し、庵主との二人三脚の珍道中がはじまる。その相手がモナさんだった。初対面で二人きりになったとき、庵主がきく、「初体験はいつ?」。新入りが思わず「高校二年生です」と答える。いかにも寂聴流であるが、それが二年前のことだった。こうして作者のいう「春の革命」が始まったのだ。寂聴さんはすでに九十一歳、五十一歳のときに出家してからでも四十年がたっている。

 しかし、せっかくの革命ではあったのだが、庵主の暮らしぶりには一向に変化のきざしがあらわれない。仕事はどんどん引き受ける。徹夜の執筆もいとわない。体力も気力も衰える気配をみせないのは舌を巻くほかないが、このような庵主のわがまま放題の行動力に悲鳴をあげ、抗議と悪口のかぎりをつくして立ちむかうモナさんの奮闘ぶりが面白い。寂庵にあらたに進行しはじめたじぐざぐ革命の息吹きまでよく伝わってきて、思わず手に汗をにぎり、笑いがこみあげてくる。
 小説は、この庵主とモナさんのそれぞれの視点から交互に描き出されていくのだが、その庵主の回想のなかで、作者の一生が走馬燈のようにつむぎだされていく。ふるさと徳島の出自をめぐる過去、結婚と家出にはじまる愛の遍歴、多彩な人間たちとの交流、作者自身がしばしば口にする「奇縁まんだら」の物語がつぎからつぎへと披露され、ファンにはおなじみの名作や傑作とのつながりまでが回顧されていく。

 書くも書いたり四百冊、その腕力にはさすがに驚かされるが、あとに残されるであろう遺産のすべては、三歳のときに捨てたわが子のために遺したいと、ほんのひと言だけいっているところが胸に響く。それでも、寂庵に流れるてんやわんやの暮らしぶりはもちろん変らない。モナさんとのくんずほぐれつの格闘技も色あせることなく、笑いの渦をまきおこしていくが、やがてその寂庵にもさすがに憂愁の気がみちはじめる。

 数え年九十三の春を迎えて、ようやくあれこれの死者たちの面影が過去のかなたから呼びもどされ、「われもまた死に支度の旅におもむかん」の思いがつのるようになったからだ。

 血縁や仏縁につながる人々のそれぞれの死が回想されていく。ガンとの壮絶なたたかいのなかで苦しみぬく敬愛する作家の最期がクローズアップされる。裕福な旧家に美しい人として育ち、しかし最後は優しい家族に囲まれながら「いきとうない」と叫んで去っていった友人の面影も、つよい印象をのこして、忘れがたい。それぞれの身近かな人々の死にゆく姿に、作者はやさしく寄りそい、おだやかな筆を重ねていく。仏門に入るときに世話になった今東光師や天台座主の山田恵諦師を追憶するときの言葉も謙譲の気にみちている。

 それら別れがたくして別れなければならなかった人々の思い出にひたりながら、寂聴さんは深夜のベッドのなかでからだの痛みに耐え、そろそろわが身の死に支度を、と思いつめるようになる。が、あらためて見廻すと、そのための準備は何ひとつできていないことに気づく。書斎は乱雑に散らかっていて、足の踏み場もない。夜更かしもあい変らずで、エンディング・ノートなど及びもつかない。

 そんな自分のありさまを俯瞰すれば、生きたいだけ生きた、書きたいだけ書いた、もうこれ以上生きたいとも思わぬ、とつい口をついて出てしまう。そもそも作家というものは、書くことができなくなれば自殺してもいいはずだ。けれども、出家の身としてはそれは許されることではない。堂々めぐりがはじまり、最後に、ここはやはり死に支度だ、と思い返す。それが生涯最後の「革命」ではないか、とも反芻する。

 そういえばこのところ寂聴さんがよく口にするのが「恋と革命」だった。大杉栄と伊藤野枝の愛の波瀾に富む人生に取りくんでいたためでもあったのだろう。若い世代にむかって恋と革命を、と檄を飛ばす場面を、評者の私も身近かにみている。その寂聴さんの信念が、「春の革命」を転機として、こんどはわが身に引きうける死に支度の革命にむかって照準を定め、一気に走りだしたのだ。

 何とも生気にみちあふれた死に支度というほかないのであるが、やはり最後になってどんでん返しの仕掛けが用意されていた。

 小説の末尾、二十六歳になったモナさんが、九十二歳になった作者の誕生日に手紙を書いて、花柄のパンツを贈る。

「先生、死なないで。死にたがらないで。もっと、もっとそばにいて。私にはこれからたくさんいろいろなことが待ち受けています。その時にそばにいてほしいのです」

 それにたいして作者が返事を書くところで、この小説は終幕を迎える。
 その手紙に書かれていた言葉は……。

 瀬戸内寂聴さんの「死に支度」は、やっとその第二幕がはじまったばかりなのだろう。