大災害により、自然も社会も取り返しのつかない損害を受けてしまったのちの物語である。日本は鎖国の道を選び、政府は民営化され、政治家は無益な法律改正にあけくれるばかり。子供たちは微熱が下がらず、ちゃんと立って歩くこともかなわない。皮肉にも、老人たちは壮健で力にあふれている。「死ねない身体を授かった」ことのつらさを抱えながら、自分たちより先に命が尽きるだろう若者たちの世話をするという定めを甘受している。
ご覧のとおり、表題作の設定には、わが国が抱え込んでいる難問の数々が取り込まれている。三・一一以降の状況に加え、少子高齢化とそれにともなうアポリアの数々が、鋭く映し出されている。ところがこの小説はわくわくと楽しく、弾むような愉快さに満ちているのである。そのことに心から驚かされる。ユートピアの正反対、まさにディストピア文学でしかありえないはずの条件がそろっているのに、“呪い”を軽やかに振り払うしなやかな語りが実現されている。読んでいて何だか元気になってくる。
そもそも小説の中では、ディストピア的状況それ自体がおかしさを帯び、笑いを生み出す。鎖国下、イギリスやフランスといった国名を口にすることさえ憚られる抑圧的環境の中で、百歳を超えてなお元気な作家の義郎(よしろう)は毎朝、土手をジョギングする。しかし外来語は廃れ、ジョギングは「駆け落ち」と名を変えている。駆ければ血圧が落ちるから、というのだから笑ってしまうし、脱力を誘われもする。強張ってしまいそうな心身の力みを解くすべが、閉塞状況を描き出す言葉のうちに含まれているのだ。
主要な視点人物となる義郎が、鎖国以前から書き続けているベテラン作家であることは、この小説のなかで文学に、そしてより具体的には文字に担わされた役割を際立たせている。文学者が反逆精神とともに立ちあがるという以上に、あるいはそれ以前に言葉自体が勝手に立ち上がり、ユーモアを漂わせもすれば、不穏な予兆をはらみもする。鎖国後新しく制定された休日のうちに、「インターネットがなくなった日を祝う『御婦裸淫の日』」なるものがある。カタカナ表記が抑圧されるとき、漢字はにわかに淫乱さを増すのか。そこには、カタカナ表記の消滅という事態と引きかえに、日本語が新たな表現と身体を見出すというプロセスが認められる。つまり文字や言葉のうちには、死んでもまたよみがえる力が宿っている。あるいは、意味の枠をはみ出してやろうという不埒な気配を、言葉はつねに秘めているともいえる。そこに文学創造にとっての根拠もある。
たとえば義郎は、「蓼」という漢字を書くたびに「文字を書くことの喜びに引き戻された」。〝ノノノ〟の部分が彼の官能を刺激するのだ。「爪で樹木の外皮をななめに引っ搔く猫科の動物の子供になったつもりで」、彼は「蓼」の字を書く。「猫科の動物の子供」という説明は見逃せない。動物になること、子供になることが重要なのである。ディストピアを生きる――しかも悦ばしく生きる――ための方途がそこに見出される。実際、この小説の中心には子供がいる。彼がいわば非人間化していくさまが、まさに一個の希望として輝き出す。
義郎がひとりで育てる曾孫、無名(むめい)。学校まで歩いていくこともできず、食べ物を咀嚼することもむずかしい。「昔の人は鳥の内臓や妊娠中の川魚を串に刺して直火で焼いて食べることもあったらしい」と驚嘆するこの男児は、いわば究極の草食系とでもいうべき風情だ。だが、いかにも惰弱な無名のふるまいや思考をとおして、何ともいえずやわらかでやさしい心身のあり方が示されていく。驚異の感覚に打たれずにはいられない。
朝起きて服を着ることがすでに、無名にとっては大変な格闘の一幕となる。寝間着を脱ごうとしてなかなか脱げず、通学用ズボンをはこうとしてまた難儀する。それは彼が「蛸」だからなのであり、着替えの際には余計な足がじゃまをしにかかるのだ。そのひと苦労を蛸のダンスとして活写する文章自体が、軟体動物的な弾みかただ。軟体動物は決してただぐにゃぐにゃしているだけではない。「これみよがしの筋肉」とは異なる無駄のない肉が無名の身体には張りめぐらされていき、義郎はそこに、これまでの人間の二本足歩行とはまったく異なる移動方法の可能性を垣間見る。
その動きは、従来の社会を縛ってきた価値観の枠外へとすべり出ていく精神のあり方と結びついている。無名はまったく無知であり、“無明”の闇にあるとも思える。だがそれは過去に囚われることがなく、自らを憐れんだり悲観したりする必要がないということでもある。ルサンチマンやメランコリーと無縁に、彼は日ごと、「めぐりくる度にみずみずしく楽し」い朝を享受する。声変わりはせず、男でも女でもなく、若くして白髪を戴き年齢の秩序をも攪乱する彼は、やがて海の闇に身を投じ、禁を犯して「世界」へ旅立つときを待つ。
ここには確かに「まだ到着していない時代の美しさ」が、その不思議なきらめきがとらえられているのを感じる。「百年以上の信念を疑う」必要に迫られたとき、進歩や退化の観念を逸脱して、未定形な生のあり方をのびやかに描き出すことができるなら、どんなにすばらしいだろう。それを多和田葉子は、言葉の秘めた変身可能性――いにしえの遣唐使は灯を献ずる使いとして生まれ変わる――への感応力を存分に発揮することによって、あざやかに実現してみせたのである。
同時に収録された四編も、表題作にさまざまな照明を投げかけて実に興味深い。そこでも、漢字はその内なるエロスを明かし、不死の老人たちは「永遠の青春」に耐え、政治家は懊悩し、動物たちは人間を糾弾している。眠れる恐竜(それともオオサンショウウオ?)の目覚めを描いた堀江栞による挿絵が、独特の生命感によって本書の味わいをいっそう深めていることも特筆しておきたい。