どろにやいと

戌井昭人

1430円(税込)

どろのちから

三浦雅士

 戌井昭人の『どろにやいと』を読んで、新しい才能というものはつねに現われるものだとあらためて感じた。つげ義春の漫画『ねじ式』と森敦の小説『月山』を思い出した。ともに異界に踏み込む話である。異界とはむろんこの世の別名。人は日々、異界に目覚め、異界に生きているのだ。そう思えないのは慣れのせいであって、慣れを拭い去って世界を新鮮に見せるのが文学であるとすれば、異界へ導かない文学はないということになる。この事実に作者が十分に意識的であるのは、『どろにやいと』という表題に明白である。

「どろにゃいと」と読んで、何のことかと思う。「泥に灸」とすぐに思いつかないのは、「やいと」が近畿地方の方言である――と一般にいわれている――からでもあるだろうが、それ以上に平仮名が用いられているせいである。「もももももももももも」という一行の次に「裳も藻も腿も桃も」という卓抜な一行を書いて読者を瞠目させたのは詩人の那珂太郎だが、世界を見慣れないものにするには、漢字をすべて平仮名にするだけで十分なのだ。『どろにやいと』という表題が作者の思想と方法をすでに完璧に示している。

 異界は見方を変えるだけですぐにでも出現する。とはいえ、それがどうした、ともいえる。「泥に灸」は「糠に釘」「暖簾に腕押し」と同種の諺。文学とは所詮、無用の代物と示唆しているとも受け取れる。戌井の作品だけではない。当今の小説の主人公はおしなべて社会の無用者である。いまや、有用者の文学は伝記に、無用者の文学は小説に振り分けられている。法学部の学生は伝記へ向かい、文学部の学生は小説へ向かう。だが、「泥に灸」は他方では「猫に小判」「豚に真珠」でもありうる。作品もまた読者次第で変わるというわけだ。したたかというほかない。

 ボクサーを目指していた若者が挫折し、事故死した父親の衣鉢(?)をついでお灸販売の行商人になる。「今回の行商は、志目掛村(しめかけむら)という村へ向います」と明記され、その村からは牛が臥せているような山が見え、それが「牛月山(ぎゅうげつさん)という霊山で、この辺りには他にも、湯女根山(ゆめこやま)、魚尾山(うおびさん)という二つの霊山があり、修験道(しゅげんどう)の行者が三つの山をぐるぐるまわって」いるというのだから、森敦の『月山』のパロディであることは疑いない。森の小説は、月山山麓の村落、七五三掛(しめかけ)に実在する注連寺に場を設定している。

 ちなみに現鶴岡市長が四年前に「七五三掛地区の地すべり災害への対応について」、以下のように書いている。「七五三掛地区は、かつて庄内と内陸を結ぶ旧六十里越街道の要衝として栄え、湯殿山詣でが盛んな頃に隆盛を極めた注連寺には、鉄門海上人の即身仏や多くの文化財が遺されております。また、最近ではアカデミー賞外国語映画賞を受賞した映画『おくりびと』のロケ地としても話題になりました。(中略)この地域は、平成三年十月農林水産省農村振興局所管『七五三掛地区地すべり防止区域』に指定され、山形県が地すべり防止対策工事を継続している地域であります。」(「砂防と治水」一九四号)

 芥川賞受賞当時の作者の老齢もあって広く話題になった『月山』も、考えてみれば半世紀近い昔の作品、いまでは映画『おくりびと』ほどにも知られていないということなのだろう。だが『どろにやいと』の作者は、にもかかわらず森の作品をパロディの対象として選んだのだ。『月山』において、森を思わせる語り手=主人公は無用者の典型。『どろにやいと』の語り手=主人公は、『月山』では「やっこ(乞食)」と称される行商人すなわち押し売りにもっとも近い存在である。有用者には程遠いが、しかし完全な無用者ではない。この微妙な違いによって、作者は何を語りたかったのか、などと問おうとは思わない。ほとんど荒唐無稽というほかない物語の展開において、あらゆる細部が夢にも似て『月山』よりはるかに生々しいのはなぜか、と問うほうがよほど重要である。つげ義春の漫画が生々しいのにそれは似ている。理由は明らかだ。視覚や聴覚以上に触覚、嗅覚、味覚に鋭敏だからである――漫画の魅力は視覚を超えるところにある――。たとえば幼児は見ているものを指と舌で確認せずにはおかない。指と舌を眼の支配下に置くようになる過程がいわゆる「泥遊び」である。これがおそらく、『どろにやいと』が、『月山』では示唆されているにすぎない「地すべり」を決定的な出来事として物語の最後に置いた理由なのだ。お灸は泥の前段階である。戌井は『月山』の雪(視覚)に、泥(触覚)の力で対抗したのだ、と、比喩的に言うことができる。逆にいえば、作者は「地すべり」を描きたかったがゆえに七五三掛を、そして『月山』を選んだということになる。

 語り手は、志目掛村は霊山をめぐる修験道の要所であるという先の説明の後に、「そういえば村に来る途中、バスの中から白装束の修験者が国道を歩いているのを見ました」と述べている。この修験者がじつは泥棒で、その妹が、村の駄菓子屋の女として語り手を誘惑し続けるのは、兄妹ともに、一介の行商人にすぎない語り手を殺し屋と勘違いしたからなのだが、このもっとも重要な伏線が露わになって、大立ち回りとなり、あわやというときに地すべりが起こる。この結末を、安易というべきか見事というべきか。

 小説のなかで、修験者と村の駄菓子屋の女――まさに中上健次的な兄妹――がもっとも強い輝きを放っていることは紛れもない。兄妹の謎が浮上し謎が解かれる過程が小説になっているといっていいほどだ。だが、謎が解かれたとき異界は雲散霧消する。それを泥の力で封印したところに作者の手腕があるというべきだろう。同じことは併録された短編『天秤皿のヘビ』にもいえる。ヘビ使いとして生きる孤児イサを呼び出すチンピラマフィアのボス、ケパルは――最後まで明かされないが――イサの実の父に違いないのである。秘密はヘビを食うことで封印される。異界は秘密が明かされないところに成立する。この世が異界であるのは、それが秘密の連鎖として以外にありえないからだ。その秘密を感覚の組み換えによって浮き彫りにしたところに、戌井昭人の新しさがある。