七本の短編作品が収められている。いずれの作品にもコーヒーが出てくる。コーヒーは単なる素材というよりも、ここでは、もう少しだけ重い意味をもった何かである。それは人間関係をつなぐ「ボルト」であり、偶然を引き寄せる「磁石」である。登場人物の行動の角度を変える、「装置」としても働いている。だが勿論、コーヒーはコーヒーであり、それ以外のものではまったくない、というふうに、作中では扱われている。
「お隣のかたからです」では、主人公・菅野達也が、オーストラリアへ移住するという妹所有のベンツを、東京から実家のある九州・大分まで自ら運転し、父親へ届けるという役目を負う。途中、倉敷でレイナと再会し、広島まで行くという彼女を同乗させる。広島で降りた彼らは、ファミリー・レストランでコーヒーを飲む。その味について「悪くない」と菅野は言う。読んでいるわたしはほっとする。コーヒーは大事だもの。ここで彼らに不味いコーヒーを飲んでほしくないもの。読んでいるうちに、あの褐色の飲み物が、わたしのなかでも比重を増したらしい。もしここで彼らが不味いコーヒーを飲んだとしたら、小説は違う方角へ進んでいったろうか? しかしそういう展開を作者は採らないように思う。
菅野という人物は、片岡作品においてはおなじみのタイプであり、彼は不味いコーヒーを飲んでも、「これは不味い」という言い方をおそらくしない。美味しくても「これは美味しいコーヒーだ」ともきっと言わない。「悪くない」。こういう否定形を繰り出す人物である。苦い認識力と常に未来を向く姿勢。片岡義男は彼の読者を、こういう小さなところで裏切らない、実に職人的作家である。そしてこうした否定形の背後に英文脈が横たわっていることは、容易に想像がつく。
主人公はあくまでも人間だ。しかしコーヒーにふと、力点が移る瞬間がある。コーヒーは黙って人間たちの会話を聴く。人の姿が消え、言葉だけが、コーヒーの上を自在に飛び交う。その場合、誰かが特権的に力を持つということはない。男でも女でも、皆対等な位置から言葉を発し、発せられた言葉は、絡み合い、安易な同意や敵対に行き着くことはない。ボクシングのジャブを見るよう。読みながら、心の筋肉がほぐれていく。
登場する男性陣の多くは、俳優、翻訳家、作家など組織に属さないフリーランス。その上、ほとんどが独身か妻と別れて今一人、あるいはこれから結婚するという設定だ。自由でしがらみがない。存在が軽い。後ろ髪を引かれることがなく、前へ前へと進む。うらやましい。が、つまりそれは、この作家の文章の特質そのものであり、彼らはこの文章を生きることを命じられた、文章を体現する、言わば「文章男」である。変な言い方になるが、この若々しい文体を生きるためには、どうしてもそういう設定が必要であり、そうでなければ文章世界が動かないと思われる。
彼らに配されるのは、二十代、三十代の美女たちで、本書には、あまりに「いい女」ばかりが出すぎるのではないかとふと思うが、これはわたしの個人的な嫉妬かもしれない。彼女らは皆、清々しいハンサムウーマン。劣等感や嫉妬、憎しみなど、ネガティブな感情を少しも持ち合わせていないように見える。立っているだけで絵になる女。現実に出会った女性が原型にあるのだとしても、書かれたことによって彼女らには、ある魅力的な「人工性」が加わった。この人工味には、日本語と英語の接続から生まれたという感触もある。彼女らも、現実にいようがいまいがまったく関係がない、文章が作りあげた「文章女」である。ここには明らかな虚構が立ち上がっている。その虚構と現実との関係を知りたければ、掌編作品のような「あとがき」を読むといい。作家が現実からどのように虚構へと跳ぶのかの、狭間の部分が読み取れる。
文章によって創りだされた彼女らは、男から見た(女から見ても?)理想的なフィギュアといってもいいのかもしれない。つまり人形愛。「酔いざめの三軒茶屋」に、「理想的な女性の体」としてウルトラの母のボディに関する描写が出てくるが、彼女らの身体も、その並びに置かれているといったら言い過ぎだろうか。女性の姿形に対する筆致のトーンは、制御がきいていて冷静である。しかしそれが逆に生々しい。言葉が女の体を作り上げていく、その生成過程に立ち会っているような気がするからだろうか。
目を瞠るのは、ストーリーの展開などでは断じてなく、この作家の創りだしていく言葉の運動のほう。運動とは流れのこと。日本語なのに粘着性がなく、さらさらと乾いている。一文一文に輪郭があり、しかも論理が通っている。情緒的なことを描写する際にも、その明瞭さは、少しも濁らない。日本酒が頭を朦朧・混沌とさせるのに対し、ウィスキーが脳を、妙に覚醒させるように、その文章は、酔えば酔うほどくっきりと目覚めてくる。
「酔いざめの三軒茶屋」では北野麻紀子がバルブレア(スコッチ)を飲む。飲んでいる最中の自意識の動きが、次のように見事に捉えられている。「飲み下したその瞬間、バーボンのホグスヘッドで熟成されたスコッチの香りが全身にいきわたり、と同時に、ほとんど常に漠然と感じている不安のようなものが、拡散されていたあらゆるところからいっきに一点へと集まり、鋭い針先のようになり、それが自分に突き刺さることによって、不安が消えるような感覚を彼女は好んだ。不安は消えるのではなく、自分だけのものとして、その所在が自分の内部に明確になるのだ」。
片岡義男の女主人公たちは、このように自己を俯瞰する、覚醒した自意識の持ち主である。男女を溶接させるために言葉が使われない。言葉は、対等な二者の間に、壁を打ちたてていくものとして使われている。そしてその壁が、官能を生み出している。