「千住警察署の刑事から電話があり、古村武寿が自殺したことを知らされたとき、玲緒奈は自分の仕掛けた罠に自分で落ちたようなめまいを覚えた」。大作と言ってよいだろうこの小説は、右の一文から始まる。何と言うかまるで、桐野夏生みたいな書き出しである。当然のことながら、まだこの小説について何も知らされていない読者は、物語のヒロインであるらしい、それもどうやら悪女めいたキャラクターであるらしい「玲緒奈」が、めまいを感じた割にはてきぱきと準備を整えて武蔵小杉のマンションを出て、千住署に赴いて「古村武寿」との関係にかんする刑事の質問に上手く誤摩化しながら答え、その足で「シュンジュー(春秋)」という男に連絡を取って彼の部屋を訪ねる約束を取りつけ、大宮公園で最愛のペットであるフェレット「トリスタン」を捨てて、春秋の待つログハウスに行って、かねてからの計画通りに彼の始末に着手するのを、その矢継ぎ早の展開に戸惑いと痛快さを感じながら、固唾を呑んで見守ることになる。その頃までには、読者は「玲緒奈」がヒロインであり悪女であるということを、らしいという留保抜きに確信している。
星野智幸のひさびさの長編小説『夜は終わらない』は、こうして開始されるのだが、しかしこれは実のところ、ピカレスクともクライム・ノヴェルとも違う。題名からしてそれっぽいのだが、読み進んでいけば程なく、それが始まりからは予想だにしなかった意味を持っていることに気付かされる。終わらない夜とは、物語りが終わらないということ、すなわち、あの『千夜一夜物語』の王とシェヘラザードの「夜」のことなのである。
玲緒奈は春秋に、命と引き換えに「お話」を求める。彼女を夢中にして、思わず続きを聞きたくさせるような物語を。彼は必死で語ってみせるが、残念ながら玲緒奈のお気には召さない。春秋は失敗する。ログハウスを後にした玲緒奈は、続いて「クオン(久音)」の部屋に行く。春秋と同じく、彼女は久音を拘束し、二人の関係の真実を告げ、死を意識させた上で、彼に「お話」を強いる。そして久音は語り出すのだが、それはやがて彼が言うところの「聞いたら二度と戻れない物語」に突入してゆく。久音の「お話」の中の登場人物が別の「お話」を語り出し、その中の人物が、また新たな「お話」を始め、ということが繰り返されていき、物語内物語内物語……はさながら迷宮の様相を呈してゆくのだが、朝が来ると、そこで語りは中断し、玲緒奈と久音は眠りに就く。そしてまた夜がやってくると、複雑な入れ子状と化した「お話」の続きが始まるのである。
この小説の大半は、このようにして物語られた複数の「お話」の連鎖と包含から成っている。語りの階層が深まるにつれて、物語の内容は次第にアンリアルに、ファンタジックに、荒唐無稽になってゆく。めくるめく語りのアラベスクは、魅惑的で刺激的である。もちろん、こうした方法論や趣向自体は、けっして斬新なものではない。『千夜一夜物語』はもとより、ヤン・ポトツキの『サラゴサ手稿』であるとか、他ならぬ『千夜一夜』に想を得たジョン・バース『キマイラ』や、日本で言えば舞城王太郎の諸作など、物語内物語を駆使した作品は、古今東西の文学史上に幾つも存在している。だから問うべきは、作者である星野智幸は、なぜこのような手法を選択したのか、そして、このような語り方によって、いったい何を語ろうとしているのか、ということになるだろう。
二つのポイントがあると思う。まずひとつは、これが大江健三郎賞を受賞した『俺俺』に続く長編だということである。それからもうひとつは、この小説が「群像」で連載開始されたのが「二〇一一年九月号」からであり、同号は八月頭の発売だから、つまりあの災禍から間もなく書き出されたものと考えられる、ということである。いや、もちろん「二〇一一年三月十一日」以前に書き始められていて暫く寝かされていた可能性もあるわけだが、おそらくそうではない。それは、小説の後半、物語内物語もかなり深まった階層に位置する、いささかアンバランスに思えるほど長い「フュージョン」と題された「お話」が、ほとんどあからさまに「原発問題」を扱っているから(だけ)ではなく、そこに第一のポイントを掛け合わせて考えてみることによって証立てられる。
『俺俺』は、「オレオレ詐欺」を出発点に、世界に「俺」が増殖してゆくさまを描いていた。『夜は終わらない』は、そこで提示された「俺であること=アイデンティティ」のアクチュアルな再問題化を、更に展開させようとしたものと考えることが出来る。複雑怪奇な物語内物語群の底を流れているのは、端的に言えば「演技/物語」というテーマである。「日常演劇」という「お話」には、人格や性別や記憶や未来までも互いに入れ替えつつ「演技」する四人の劇団員(?)が出てくるが、それのみならず、どの「お話」においても、自己が自己ならざる誰かを演じるということ、翻せば、自己とは自己ならざる誰かによって演じられているものなのだということが、さまざまに物語られており、しかもそれは「物語」られていることを、徹底的に晒け出し強調されている。こうして、演じる自己と演じられる自己の区別も、物語る自己と物語られる自己の区別も、それらと自己ならざる者たちとの区別さえつかなくなり、「自己」は「増殖」の次なる段階である「フュージョン=融合」の次元に達する。そして「フュージョン」は実際に「核融合」の「お話」なのである。「高速増殖炉」から「核融合炉」へ。そこで「自己」は役目を終えて消え去るだろう。だが最後の最後で、星野智幸は、思いがけない結末を記すのだ。物語内物語たちがパタンパタンと閉じられていった果てに、玲緒奈が遂に口にする台詞を聞いて(読んで)、私は驚きと感動を禁じ得なかった。たとえそれが、また別の意味で、自分の仕掛けた罠に自分で落ちるようなことであったのだとしても、である。