存在しないものを存在すると思わせるのは容易ではない。書き手がどんなに存在すると言い張っても、読み手が信じなければそれは存在しない。そこでごく少数の読者と共犯関係を結び、存在すると仮定してその仮定を受け入れてもらうか、存在するか否かという問題を意識させない必要がある。前者の場合、読者は多大な想像力を必要とし、読書行為は知的遊戯の様相を呈するだろう。ボルヘスの作品は、まずはこの少数読者のために書かれている。後者の場合は、物語、語り口、仕掛けなどが巧妙かつ魅力的で、読者は語られている内容以外意識しない。シェヘラザードの語る物語とそれを組み込んだ『千夜一夜物語』はそんな力を備えている。いとうせいこうの新作『存在しない小説』は、一見前者のタイプに属するようだが、仕掛けを含めての面白さに読み手が引き込まれるところから、後者のタイプに属するとも言える。
本誌に連載された六つの連作短編を一冊にまとめた本書の目立った特徴として、まず挙げられるのが、各短編の終りに編者解説が付されていることである。この形式は、自作の解説が施されたボルヘスの英語版自選短編集『ボルヘスとわたし』を思い出させる。また架空の作家や作品というのもボルヘス的で、そのためだろうか、本書の献辞は最初「J・L・ボルヘスへ」だったと聞く。
だが献辞を「存在しない作家たちへ」と変更した結果、もはやボルヘスの名は現れない。本書のボルヘス的性格は明らかであるところから、その性格が枷になるのを避けるためだろう。というのも著者はポスト・ポスト・ボルヘス作家であり、創作においてはボルヘス以上に自意識が強い。献辞の変更は、自作がかのアルゼンチン作家を超えるべくひねりを加えたものであることを示しているようだ。たとえば「解説」にしても、ボルヘスの作品ではそれを行うのは作者だが、本書では架空の編者となっている。
また六つの短編は、それぞれ異なる作家によって書かれたテクストの翻訳という設定になっているが、作家も翻訳者も架空の存在なのだ。もちろんその種の設定を用いた先行作品に、アラビア語で書かれたテクストの翻訳であると語り手が予め断るセルバンテスの『ドン・キホーテ』やポトツキの『サラゴサ手稿』がある。だが、それらの作品を想起させること自体、本書がその系譜に連なり、それらを包摂する世界文学の一翼を担っていることの証でもある。
目を惹くのは、「能楽堂まで」という短編では作者が「いとうせいこう」であり、それを最初の三作の訳者である「仮蜜柑三吉」が訳しているのに対し、第六回の「オン・ザ・ビーチ」では作者が「ラルフ・アウスレンダー」、訳者が「いとうせいこう」となっていることだ。もちろん、二人の「いとうせいこう」はボルヘスの短編「ボルヘスとわたし」のボルヘス同様、実在しないフィクショナルな存在としての彼である。このように、リアリズム小説の読者には過ぎた遊戯性を本書は備えている。しかし、デュシャン論を組み込んだ「背中から来て遠ざかる」、存在しない小説の物語である「リマから八時間」、豪雨に遭遇した少女が他者のコミュニティーに迷い込みつつ文化論を語る「あたし」、日本の私小説のパロディー「能楽堂まで」、成り上がり者と娼婦の物語「ゴールド」、ロベルト・ボラーニョ『2666』第五部の〈存在しない小説〉の件を彷彿させる「オン・ザ・ビーチ」と、いずれの短編も完成度が高く、独立した作品として読み応えがある。これは奇跡的なことだ。
近年、日本でもかつてなく世界文学という用語が使われるようになり、主に英語によってだが、翻訳される機会の増えた日本文学も、世界文学という文脈の中で読まれるようになってきた。そのことは作家たちも多少なりとも意識しているはずである。本書を構成する短編の舞台は米国、ペルー、マレーシア、日本、香港、クロアチアとすべて異なり、日本一国に収斂しないのが特徴だ。しかも人物は再登場せず、作者の分身による世界巡りという形を取ってはいない。作品が世界各地からメールで編者のもとに送られてくるという設定は、グローバル化した世界を反映し、二〇世紀文学には見られなかった。こうした大胆な設定には、ボラーニョの長編小説における時空の把握の仕方と同質のものを感じる。
エピグラフに引かれた「神は一なる存在ではない。どうして、私がひとつでありえようか」というペソアの言葉は、本書のキー概念となるだろう。すなわち、「私」は国籍、言語、ジェンダー、年齢などアイデンティティーを保証するものや、さらには時空にさえ縛られることなく、自由かつ越境的に遍在するということである。著者はそれを具体的に可能にするのが想像力を媒介とする文学であると主張し、各短編でその実践を試みている。すなわち連作において、異なる主人公たちの生のそれぞれを、架空の「私」として生きるのだ。だがその「私」は荒唐無稽な存在ではない。物語はときに寓話的でありながらもリアリティーを感じさせる。それは、巧みに溶かし込まれた著者の豊かな体験と、現実を把握する力による。実際のあるいは想像上の旅、異文化体験、読書などを総合した知的体験が絶妙な味を作っているのだ。デュシャン論を園芸用語で語れという美術教師の言葉に見られるユーモアもそれに一役買っている。
いとうせいこうのように小説を分析的に考察する作家にとっては、物語がどこの国であるいは何語で書かれているかということ以上に、そのコンセプトや技法に関心が及ぶようだ。彼を特集した雑誌「文藝」に「いとうせいこうを作った『言葉』」として内外の作家と作品が挙げられている。ルーセルに始まるリストを見ると、既成のものを乗り越えようとする作家ばかりであることがわかる。だが先行作家が誰であれ、コンセプトが何であれ、本人の作品に力がなければ自己満足に終わるしかない。その意味で、バルトの「作者の死」にもひねりを加える本書は、著者の理論・技術的関心と物語への関心がバランスよく盛り込まれ、重くないしシリアスでもないのに実に読み応えがある。一作ごとに趣向が変わり、飽きさせない。そして「編者解説」から聞こえる「編者」の声と著者自身の声を聞き分けるという二次的楽しみもある。