大江健三郎氏は「三・一一」後の危機のなかで、明らかに、自分を生み直そうとしている。氏ほど切実に「三・一一」に対峙した文学者は私の知る限り他に誰もいない。
この小説は、東日本大震災に直面した一家の混乱に始まり、彼らが四国の森へと疎開するまでを描いている。大江氏自身としか読めない作家の長江古義人が、ある雑誌に連載している小説を、三人の女性(妹・妻・娘)が批評し、その批評を含みつつ、さらに書き進めて行くという構成になっている。登場人物のほとんどは長江の身近な人間である。過去の自作への言及も多い。しかし、作中で頻繁に言及される『空の怪物アグイー』や『懐かしい年への手紙』や『水死』といった旧作を、予め読んでおく必要は必ずしもない。
長江に対して向けられる、無数の登場人物たちによる辛辣な批評。その踏み込み方が、あまりに容赦がないので、つい笑ってしまう。娘の真木は言う。〈パパはこれまで性懲りもなく三十年、四十年と書き続けて、読者の関心はあらかた失なっている老作家の古めかしい繰り返しをヒンシュクされることもあった。それが「三・一一後」の非常時だということでやっと気に掛かって、娘に編集させる私家版の雑誌でまず身内の反応をうかがおうとしたとすれば、なんという保身術だろう〉。妹のアサは言う。〈アカリさんはいつも本気です。アカリさんの目を見返せなくなって、久しぶりに雨水をためた柴木にうつぶせる真似を思い立ちますか? その期に及んでも、兄さんの両足頸を引っ摑んで放さぬ者はここに控えていますが、それはむしろ、あなたを逃げ出させないためでもあるんです〉。妻の千樫は言う。〈むしろあなたは、国の未来が閉ざされても、自分は年をとっていて長くはないんだし、本の知識だけはなんとか持ちこたえて死んでゆこう。そういいそうな人じゃないですか〉。親友の息子のギー・ジュニアは言う。〈それでは篁透(たかむら・とおる)(筆者注・武満徹)と、またサイードと同じように、遠からず死んでゆくあなたを僕が「カタストロフィー委員会」に推すかというと、まだ躊躇があります。いま僕はあなたが反・原発の大きい集会の発起人になったり、その方向で講演したり、新聞にエッセイを書いたりしても、それは大きい賞を背中に背負ってのフルマイと感じる〉。
これらの言葉を大江氏が痛みなく書いたとは思わない。それをユーモラスに描くために氏が支払った努力を想う。しかし一撃はやはり障害のある息子のアカリから来る。〈いつも長江さんはチガウ言葉でいいます。私のいうことは、全然聞きません。そして私のいったのとチガウ言葉でいいます。それが、全然ダメです。真木ちゃんも、ママもそういっております〉。アカリは現実の側から作家の虚構に抗議する。決定的なのは、小説の始まり、余震や放射能の被害に怯える作家に対し、アカリが呼びかけた〈ダイジョーブですよ、ダイジョーブですよ。アグイーが助けてくれますからね!〉という言葉が、真実は〈ダイジョウブですよ、ダイジョウブですよ。アカリが助けてあげますからね!〉だったことだ。
手を差し伸べてくれた愛する人さえも捻じ曲げる現実歪曲フィールド。だが最後まで読んでもアカリの批判の真意が作家に届いたようには思われない。なぜだろうか。
前作『水死』で書かれたように、かつて作家は少年時、洪水の夜にボートに乗った父を見殺しにしたという。それを年長の親友であるギー兄さんに問われ、アグイーを呼び出したときと同じく、「コギーがいるから大丈夫だと思った」と弁解した少年時の作家に、彼は言う。〈お父さんが危ないところへ出て行かれて死なれたのに、それを見殺しにして、そういう誰にでもわかるゴマカシをいうのはよくない、恐しかったので逃げ出したと、どうして正直にいわないか〉。
この正論を言われた翌日に少年が自殺を試みたことに注意しよう。正しい批判を突きつけられたとき、自殺に向かってしまった少年は、時を経て、他者の批判に耐えうる人間へと成長した、そういう話ではない。真実は人を死にたくさせる。作中に引用される辛辣な批評の言葉さえ、どこか調整された、真に作家を脅かすものではなくなっている。そもそも、水の溜まった木に首を突っ込んだという話自体に噓があり、現実の作家は図太く生きているのかもしれない。
だが、アカリをアグイーと、いや、光氏をアカリと読み替えること、そこに築かれた世界に亀裂が走っている。それは大江氏の小説すべてを破壊しかねない致命的なものだ。
見たくない現実を突きつけられることの恐怖と苦痛。それらを緩和する手段としての小説。これまで大江氏に対して無数の批判が投げつけられた。しかし、人間が言葉を使っていること自体が、現実から逃避し虚構を積み上げることである。氏は言えただろう。「君は私のアグイーを批判する。よろしい。ならば君は君自身のアグイーを批判することができるか。せめて、君の言葉が核心において、君のアグイーによって致命的な傷を負わぬところから発されていることを、十字路の真ん中で認めることができるか。他者の問題へと転嫁せず、どこまでも自分の問題として、命の危険があったテロの記憶や、親しい人の理不尽な死や、どうしても消えない自殺衝動に耐えながら、作品として差し出すことができるか」。
もはや言葉で云々する領域を超えていると感じる。大江氏の小説を氏の望む通りに「構造的」に解説する者たちは問題外だ。だが、江藤淳を筆頭とする、氏の「虚構」と「現実」の関係を突く論者たちのなかに、大江氏に寄り添う者はついに現れなかった。誰も氏と共に苦しんでくれなかった。それが私は自分のことのように本当に悲しい。ここから氏が、再び世界を打ち建てるなら、それこそが自分をも他人をも復活させる小説になるはずだが、それは一人ではおそらくできない。