ああもうこれは、鐘が鳴りやまない状態だな、と思った。「のど自慢」の鐘ではない。トーマス・マンがいうところの、「物語の精神の鐘」である。マンの長編小説「選ばれし人」の冒頭で、語り手は「物語の精神が鐘を鳴らしている」と告げる。いままさに執筆に着手した作者の胸の内で高らかに鳴り響く鐘。「さあ、俺が語るぞ、みんな聞いてくれよ!」と読者に呼びかけずにはいられない。文学を支えてきたのはこのような「物語の精神」であり、それが横溢する場所には鐘が鳴り響く。藤野可織の『おはなしして子ちゃん』からも、そんな鐘の音が聞こえてくる。あとからあとから、物語が溢れてくる。
「物語の精神」は、聞き手を求めて彷徨う。本書においても、表題作の語り手は、小学校のときの理科準備室での体験以来、物語ることを自分に要求してくれる「おはなしして子ちゃん」を、できるだけたくさん見つけようと決心する。父にも母にも自分の話を聞いてもらったことのない孤独な一人っ子、学校では多数派(それを語り手は「私たち」と呼ぶ)の側に立って同級生に陰湿ないじめをしていた「私」が、ホルマリン漬けの猿の標本にせがまれて話をしたあの夜から、物語ることの快感に目覚めるのだ。そして、聞き手を得ようとする「私」の努力に呼応するかのように、差出人不明の葉書が届く……。
「物語の精神」は、最適の聞き手を得たときにみごとに開花する。それまでは、ただ虚空に漂っている場合もある。聞き手は必ずしも「ひと」とは限らない。理科準備室に放置された猿の標本が最良の聞き手であったように、「もの」としての存在が「物語の精神」を受けとめることもある。この短編集で非常に興味深かったのは、「もの」もしくは発生以前の生命体に向かって、登場人物が物語以前の「名付け」や「刷り込み」を行う場面がくりかえし見られたことだ。たとえば「アイデンティティ」と題された作品で、細工師の助六は、猿と鮭を縫い合わせた「人魚」の死骸に向かって、「おめえは人魚だ」と言い聞かせる。しかも、その言葉は日本語ではない。「おめえが使えることばはたったひとつだろ。どこでだって、誰にだって通じるに決まってる」。
たしかにその言葉は海を渡った先の異国で桐箱を開けたマイルズ(マイルズって誰?)にも通じるが、「それ」が「人魚」ではないことは、すぐに見抜かれてしまう。「それ」自身にも、「人魚」になどなりたくなかったという記憶が甦る。だとしたら、あの「刷り込み」はいったい何だったのだろう?
ホルマリン漬けの猿の標本はお話を聞きたがり、故郷に帰りたがるが、乾燥した猿と鮭の死骸は、博物館で人々を啓蒙し続ける。「ありのままの自分」を受け入れることの大切さを伝えるのだ。「人魚」ではなく猿と鮭であるところの自分を。ここでは死骸は聞き手ではなく、語り手であり発信者。そして、「おめえが使える」「たったひとつのことば」を理解する聞き手がまさにこの短編の語り手であることが、暗黙のうちに示されている。そう、藤野可織の語り手は、ものが発するかすかな言葉を聞きとる、耳ざとい聞き手でもあるのだ。
先に「刷り込み」の話を書いたが、本書の語り手たちは、「言葉の力」を信頼するようでいて、実はその限界を充分にわきまえている。「美人は気合い」という短編では、思考する主体であるところの「宇宙船」が、船内に預かったただひとつの生命体である「胚盤胞」に向かって、「美」の承認を与え続けようとする。「あるものを美しいとするには、それを美しいと感じる主体の個性構築に、時空座標が激しく介入することを考慮に入れないわけにはいかない」と考える「宇宙船」の言葉を要約すれば、固定された美の基準など存在しないことになるが、「胚盤胞」だけは、どのような外観をとろうとも美しい、とされる。逆にいえば、判断はそこでは放棄され、壊れてしまった「宇宙船」の記憶装置に残るさまざまなイメージの残滓に承認が与えられているにすぎないことにもなる。ここでふと、旧約聖書の「創世記」冒頭で、創造者が被造物のすべてに「それは非常によかった」という承認を与えたことが思い起こされる。自らが生み出すすべてのイメージを承認する壊れた「宇宙船」は、調子っぱずれな創造行為を、もはや止められないのだ。
本書に特徴的なのはさらに、加速する妄想、たたみかけるようなイメージの連なり、くりかえされる逸脱である。「ピエタとトランジ」において、トランジの周辺で起きる数々の死亡事故や殺人事件。「今日の心霊」において、語り手が保存収集に努める心霊写真。「ホームパーティーはこれから」において、続々と、リムジンバスで到着する未知のパーティー客たち。日常からの逸脱が過剰になればなるほど、悲劇はもはや悲劇でなくなり、歪んだ笑いが湧き起こってくる。ははは、シュールだね。怖いね。でも、もっと読みたい。疾駆する「物語の精神」に、ついていくのみである。
アイデンティティの刷り込みにせよ、一方的な美の承認にせよ、あるいは「エイプリル・フール」と題された短編に出てくる、毎日一つだけ噓をつかないと死んでしまうという奇妙な病にせよ……それらは言葉の暴力性を充分に意識させるエピソードでもある。「ある遅読症患者の手記」には、一種の生命体として育てられる本のなかの文字を、「蟻を一匹一匹人差し指でつぶすみたいにして読む」人物が登場する。あまりにもゆっくり、延々と蟻をつぶしながら読むうちに、その本は死んでしまう。遅読症患者の手記そのものも、本になれば死ぬ運命にある。
これは、疾駆する「物語の精神」からの警告とはいえないだろうか。旬のうちに、ただちに読み通すこと。できるかぎり並走すること。なぜなら、次の物語が、そしてまた次の物語が、高らかに鐘を鳴らしつつ、すでにスタンバっているからだ。