この小説は、とっても優しい。
物語は、語り手である昼田が25歳の秋から始まる。昼田はハッコウと一緒に、公園の池で泳ぐ鯉を見ている。
「口が伸びるんだね、食べる瞬間に」
鯉の口は食べるときだけ一瞬、ストローのように伸びるらしい。
ふたりは、鯉の口が伸びるのを、一緒に見続けていられるような関係だ。
昼田とハッコウは家族だが、本当の兄弟ではない。昼田は、ハッコウの父親の妹、華子の息子だ。つまりふたりはいとこ同士である。昼田の父親は不明で、華子は昼田が5歳のときに死んだ。昼田はハッコウの家である田中家に引き取られ、鼓太郎、ハッコウ、瞳と四兄弟として育てられてきた。初めの頃は、兄弟間で軽い苛めもあったようなのだが、今はそのことを思い出話として話せる。
田中家はアロワナ書店という本屋を営んでいる。いわゆる「町の本屋さん」だ。二代目である父、公平は、次男のハッコウに店を継がせたがっているが、ハッコウは昼田いわく、「思春期に終わりがなかった」らしい。
確かにハッコウは、「お父さんなんか、死んじゃえばいいのに」などと呟いてみせたり、電車にも車にも乗れず、出会った人すべてにタメ口で接する。四男坊の瞳の言うような「屑」とまでは思わないが、まあ、駄目な人間である。
公平がある日突然亡くなり、ハッコウがアロワナ書店を引き継ぐ。昼田はハッコウを助け、アロワナ書店を盛り上げようとする。その道程で、様々な出来事があり、ふたりの心はいきおい変化しながら、日々は続いてゆく。
ラストシーンのことにまで触れるのはすごくはしたないが、でもとても美しい景色だから、書きたい。ふたりは再び、鯉を見ている。「鯉は、口が伸びるんだね」
ふたりは、鯉の口が伸びるのを、これからも見続けてゆく関係だ。
物語の中には、たくさんの会話がある。皆、実によく話す。例えば、白装束は実はMIZUNO製だということや、TRFの「マスカレード」のこと、「ヒュージさん」と呼ばれる雑誌のことなど、本当に他愛のない会話だ。普通なら印刷文字にならないようなことまで、作者は丁寧に書いている。
私の大好きな登場人物が、朝倉という男だ。自意識過剰で被害者意識が強くて、すごく面倒くさい。好きな作家が、飲み会で自分に話しかけてくれなかったというだけで、
「性格悪くないですか?」
なんて言う奴。最初は嫌いだったが、ページがすすむにつれ、大好きになった。私は(笑)をつけて「朝倉(笑)」と呼んでいる。朝倉(笑)が言うのは、本当にくだらないことばかりだ。
様々な会話が、様々な場所に「ある」。くだらなくても、取るに足らなくても、それは発された瞬間から確実に存在する。
小説には、「小説用の会話」というものがあるように思う。それ以外の会話を入れると、編集者に「この会話必要?」と朱を入れられたりする。でも、現実、私たちの会話に、必要なものとそうでないものの差なんて無いはずだ。何を言ってもそれは、かけがえのない私たちの言葉なのだ。
彼らは他愛のない会話の端々に、人生の深淵を覗くような言葉を発している。だがそのふたつの言葉の境界も滲んでいる。発した限りは書く。作者はどちらも平等に、フラットに扱う。フラットさは、この作品の骨子になっている。
このフラットさをこそ、私は「優しいなぁ」と思う。風邪を引いたときに、枕元で「大丈夫?」と言い続けてくれる優しさではなく、手の届く場所にポカリをどんと置いて、隣の部屋に、静かにいてくれるような優しさ。言葉で言い表すのが難しいが、表層には現れがたい優しさ。
フラットさでいえば、昼田の日常ではまた、様々な事件が起こるが、そのどれも、小説内で「ジャーン!」という登場の仕方をしない。「淡々とした日常」と、それは同じように描かれている。
アロワナ書店で万引きをした、昼田の昔の恋人・由香、そして由香が置きざりにして行った「昼田の子」だという銀次、思いがけない、昼田の実の父親の存在など、いくらでもドラマティックに描くことが出来ることを、著者は、日常からなだらかに繫がった線のように登場させる。
私たちは、無意識のうちに、「ジャーン!」と「淡々」を分けてしまっている。それらは私たちの世界で平等に起こっているのに、だ。その無意識の境界線を、この小説は「ふわっ」と崩す。「ジャーン!」も「淡々」も、全て起こったこと。すべて平等なこと。
死も夢も、他愛もない会話も、旅立ちもホームレスも、ネグレクトも地震も。物事に優劣をつけるのではなく、すべてをフラットに描く。会話と同じ、起こった瞬間から、それは残る。作者はそれを見逃さない。
私たちは、存在している。「存在していいのか?」そう考える前に、もう存在してしまっている。子供を作る人もいれば、作らない人もいる。町の本屋さんも、作家も、ヒルズ族も、モテ系も、非モテも、存在してしまっている。
存在してしまっているからには、残りたい。優劣をつけられたくない。遠くの人も、近くの人も。
この小説は、私たちと、私たちにまつわるすべてを、とても品のあるやり方で肯定してくれているのだ。
優しいなぁ、何度もそう思う。