タイトルの通り、本書はJ・D・サリンジャーの短編集『ナイン・ストーリーズ』に対するパロディとして編まれたものである。カナダの英文学者リンダ・ハッチオンの言葉に倣うならば、パロディとは「差異を含んだ反復」であり、本書はサリンジャーへの敬意とそこに決定的な亀裂を入れようとする意志によって成立している。
本書のパロディ性は各編のタイトルを眺めるだけでも理解できる。野崎孝訳による『ナイン・ストーリーズ』には「バナナフィッシュにうってつけの日」「コネティカットのひょこひょこおじさん」「対エスキモー戦争の前夜」「笑い男」「小舟のほとりで」「エズミに捧ぐ│愛と汚辱のうちに」「愛らしき口もと目は緑」「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」「テディ」という九編が収録されているが、本書ではこれを引き受けるように「チェリーフィッシュにうってつけの日」「私のひょろひょろお兄ちゃん」「対ロボット戦争の前夜」「憂い男」「小川のほとりで」「ナオミに捧ぐ│愛も汚辱のうちに」「愛らしき目もと口は緑」「コードウェイナー・スミスの青の時代」「レディ」というタイトルが並ぶ。
しかし、重要なのは本書がテーマのレベルにおいていかなるズレを産み出しているのかという点だ。
そもそも佐藤友哉はデビューの時点で強くサリンジャーの影響を感じさせる作家だった。デビュー作である『フリッカー式』は鏡公彦(きみひこ)とその兄弟・姉妹を中心とした物語だが、鏡という名前自体がサリンジャー作品におけるグラース家をモチーフとしており、その後の『エナメルを塗った魂の比重』、『水没ピアノ』、『クリスマス・テロル』といった作品は「グラース・サーガ」に対応する形で「鏡家サーガ」と呼ばれている。
本書もまた、全編に鏡家の人物が登場していることを考えれば、このサーガの中に含まれるものとしてよいだろう。内容面においても、本書はオリジナルとの連動性を有している。たとえば「バナナフィッシュにうってつけの日」はグラース家の長男シーモアの拳銃自殺について記したものだが、「チェリーフィッシュにうってつけの日」においても鏡家の長女である癒奈(ゆな)につきまとう死の影が作品の端々から感じ取れる。
だが、最も興味深いのは、サリンジャーが『ナイン・ストーリーズ』において第二次世界大戦の暗い記憶や禅の思想から影響を受けての神秘体験といったモチーフを中核に据えているのに対し、佐藤友哉は鏡家の人々が過ごす日常を幸福なイメージと共に描いているという点である。その差異は「テディ」と「レディ」において顕著に見受けられる。「テディ」の主人公であるテディ(彼はシーモアの原型とも言われる)は神や愛や輪廻説についての問答を青年と繰り広げ、自身を「霊的にかなり進んだ人間」a person making very nice spiritual advancementだと考えている人物だ。一方、「レディ」はこうした「テディ」の哲学を批判的に検証するような構造を採っている。この短編における中心人物である癒奈は弟妹から神や天才として崇められている人物だが、彼女は遊園地で出会った男性に「むずかしい話をするつもりはないんです。もちろん宗教的な話も」と語っている。彼女は家族に対し強い隣人愛を持っており、自分のレベルに周囲が追いつくことを望んだりもしない。これは明確に癒奈からテディに対して届けられた批判であり、テーマのレベルで「差異を含んだ反復」が機能する箇所だ。
オリジナルの『ナイン・ストーリーズ』は決して読者に親切な作品ではない。むしろ、登場人物たちの行動理由を不明瞭にしたり、言い回しを難解にすることで神秘性を作品に纏わせていたとすら言えるだろう。しかし、佐藤友哉は『ナイン・ストーリーズ』の世界を徹底して親切に設計した。本書は短編を貫く軸として「鏡家サーガ」を設定し(サリンジャー版にはグラース家の人々が登場しない作品も含まれている)、登場人物のキャラクター性を高めることで読者の共感を誘うことに成功した。
ただ、このようなキャラクター性と共感の問題を、本書を読むだけで十分に理解することは難しい。そもそも「鏡家サーガ」本編における鏡家の人物たちは、全員何かしらの異常を抱えた人間として描かれてきた。「鏡家サーガ」は壊れた家族を中心に展開されるミステリーであり、そこにおけるキャラクターは常にグロテスクなイメージを纏いつつ、一般的な幸福からは程遠い世界を生きている。これらの作品を読んでいなければ発言の意図を理解できない箇所も多々存在するため、本書はいくらかの知識を前提とした「鏡家サーガ」のファンブックとしての側面を持っていると言える。それは、死や狂気の世界を前提とした本編では原理的に語り得ない幸福な関係性を外部リンクとして読者に提示することで、サーガ全体に奥行きを持たせるような所作である。
佐藤友哉は『クリスマス・テロル』の終章で自ら小説世界に登場し、売上の問題で「鏡家サーガ」の続編が出ないことを吐露してしまうような自意識を持った作家である。そのような振る舞いが、時に作家としての冷静さを欠いたものと映ることも確かだ。だが、ある種のみっともなさを正直に受け止めてきた作家だからこそ、サリンジャーの浮世離れした作品を現実に呼吸する人間の世界へと引き寄せることができたのではないか。だとすれば、それは佐藤友哉という作家だけに可能な成熟の在り方だ。その意味で本書はサリンジャーのみならず、青春という言葉に過剰な意味を見出していたこれまでの佐藤友哉自身に対するパロディにもなっていると言えるだろう。個々の短編を楽しむだけでなくテクストの内外を幾度も往復することで、多様な世界を読者に提示する仕掛けに満ちた作品である。