熱帯魚のグッピーを使っての実験だったと記憶しているが、同じ水槽にたくさんの同種の魚を入れ、観察しつづけたところ、体の模様があざやかなオスほどメスを惹きつけやすいことがわかった、というテレビでの報道を見たことがある。ずいぶん暇な研究をするひとが世の中にはいるものだ、とちょっとあきれながら、それにしても熱帯魚の世界ですら「美形」がもてるなんて、とびっくりさせられていた。
けれどよくよく考えてみれば、当のグッピーのメスたちが「美形」のオスを「美」と受けとめているとはかぎらない。むしろ、あのオスはすこぶる健康で、泳ぎ方もたくましいから、子どもを作る相手としてふさわしい、と「種の保存」の本能で判断し、「美形」のオスにすり寄っていくのかもしれない。そうしたオスが人間の眼で見ても、「美形」に感じられるという事実のほうが、私には驚くべきことのように思える。人間も基本的に「種の保存」的本能から逃れられずにいるのか、あるいは本来、仲間のなかで体力や外見が勝っている個体は、人間が見ても、魚が見ても、美しく感じられるものなのか。
人間は生きることについての本能がそもそも壊れている存在なのだ、と以前これも「専門家」から教えられた。だからこそ、動物とちがって思弁の力が養われ、言葉を操るようになった。なるほどなあ、とそのときは深く納得したものだったけれど、こうした美意識のありようを思うと、人間にも「種の保存」の本能が生きている、と言えるような気がしてくる。ちなみに仲間の数が激減したときも、人間に「種の保存」の本能がよみがえるらしい。ベトナム戦争のころ、たくさんのひとが殺されて、さぞかしベトナムの全人口が減っただろう、と思いきや、じつは人口は増えていた。つまり「種」の滅亡の危機を察したのか、戦時中に出生率が急上昇していたというのだ。ほかにも移民のひとたちは新しい土地にできるだけしっかり自分の根を下ろしたくて、子どもをどんどん産む傾向があるとも聞いている。
人間の存在と「種の保存」本能との関係に私ごときが正解など出せるはずはないのだけれど、人間もこの自然界の一員であるにはちがいなく、それならば「種の保存」とまったく無関係に生きることは不可能なのだろうし、人間の不幸はそのように中途はんぱに残された本能をいくら無視したくても無視できない、というところから発生しているのかもしれない。性行為を生殖から切り離し、「快楽」として認識するのも、人間独特の現象らしい。
人間以外の生命体はほぼ例外なく「快楽」とは無縁のまま、ごく単純に「種の保存」本能にしたがって生きていて、生きることにほかの目的などないのだろうし、まして自分の生に疑問を持つこともないように見える。鳥のオスたちはメスのため、派手な羽毛を誇って見せたり、みごとな歌をうたい、踊りをおどる。動物のオスたちはメスに自分の強さを誇示するし、花々はその美しさとにおいで虫たちを呼び寄せ、花粉を運んでもらう。すべては生殖のため、というエロスに溢れた世界なのだ。そんな世界で、自分たちの弱々しい本能を頼りにすることもできず、あれこれと思い悩んで生きなければならない人間の存在は、ひどく孤独なのにちがいない。青山七恵さんの意欲的な新しい長編『快楽』は、そうした人間の抱える孤独なエロスの有り様を、ヴェニスという、過去の産物だけで生き延びている都市を背景に描いている。ここにはみごとに、恋心とか、同情、慰めなどは存在しない。「美醜」という課題を与えられてしまった男女の、ひたむきで、精密な実験の報告のようなおもむきが、この作品にはある。
二組の夫婦が作品に登場するのだけれど、一方は夫が並はずれた「美形」で、妻はずんぐりむっくりの、まるで美しくない女、一方は妻がファッションモデルのような美しい女で、夫はかなり醜いけれど、有能な男ではある。この美しくない女と男がもっぱら「美醜」の格差に悩み、「美」の意味を問い、「愛」という蜃気楼におびえる。こうした苦しみの挙げ句、人間としての思弁をいつの間にか深めていく。「美形」の男女のほうはこれとは正反対に、およそ自分の外見には無関心なまま、自然界に溢れる純粋なエロスを追い求める。でもかれらとて、自然界の生命体からはみ出てしまった人間なので、グッピーや鳥たちのように生きることはできない。そもそもこの四人の男女ははじめから、「生殖」の概念を持ち合わせていない。
作品の舞台であるヴェニスに四人の男女は観光客として訪れ、毎日、暑さにうんざりしつつ古い町中を歩きまわるのだけれど、読者としてはいやでも、ヴィスコンティ監督の映画『ベニスに死す』を連想せずにはいられなくなる。都市としての本来の活力を失ってから久しいヴェニスならではの退廃の美が漂い、映画では、さらに呪わしい疫病までがはびこり、たまたま見かけた美少年に魅せられたひとりの老人が、この古い都市の迷路をさまよいつづける。
青山さんの描くヴェニスは、この映画と比べればはるかに明るさが確保されているけれど、四人の日本人男女はこの迷路で、やはり「美」と「快楽」に翻弄され、「愛」の概念におびえ、「生」の意味さえ見失い、疲労を引きずりながらあてどなく歩きまわる。そのさまは、四人の視点をつぎつぎたどっていく丹念な文章の効果も手伝い、健康なヒレや尾、それとも腹部を傷つけられたグッピーが四匹、たがいにからみ合い、反撥し、ふらふらと、よどんだ水のなかを泳ぎつづけているようで、痛々しい。現代の、高度にシステム化された社会で生きなければならない人間にとっての「愛」は、ますます孤独に切ないものになっていくばかりなのだろうか。