ひとが変わるとはどういうことだろうか。仮面の下に隠された顔はもともとひとつだけではなかろうし、変わったように見えて核心の部分は何も変わっていないのかもしれない。経年変化は当たり前のことであるから措くにしても、決定的な変化とは無縁に見えていたひとが思いがけずふっと変わった。何が起きたのか。
『45°』は九篇の短篇から成る連作小説集。表題作「45°」を雑誌掲載時に読んだとき、おや、と少しびっくりした。雨宮(あめみや)は駅前のモスバーにいる。二階の窓ぎわのテーブル席にすわり、おそい朝食をとっていた。ライスバーガーとペットボトル入りの玄米茶を選ぶ。低カロリーで低価格のけちけちした組みあわせだ。」普通の作家が普通に書くような書き出し、この時点でもう一度作者名を見る。《長野まゆみ新連載連作小説》に間違いない。こういう文章も書き分ける作家だったかどうか、記憶を探ってみてもどうやら新機軸の予感。考えつつ読み進むと、いつもの美意識による偏りがまったく感じられないことにすぐ気づく。―駅前ロータリーを見下ろす店内で、《雨宮》は背後の席についたふたりの客の会話に耳をそばだてる。視点となるこの人物は姓と年齢と《聞こえすぎる耳》の悩みを持つこと以外はほぼ正体不明である。聞こえてくる会話の片方の人物はアドバルーンの浮揚員という聞き慣れない職業、もうひとりはビルの三階から落ちて記憶を失った過去を持つという。長い年月ののちに事故の目撃者となり得る人物を探し当て、対面の運びとなったらしいのだ。詳細に語られる都市生活の細部、そして面妖な会話の行方を余さず聞きおおせたいとじれじれ焦燥する話の運びがまあ上手いこと。ついでに「がれき」「テレビであの光景を目にしたとき」との言及にも目が留まる。ありふれた日常に潜む怪異を一瞬にして現出させる捻った結末も鮮やかで、この一篇だけ読めば中井英夫あたりのスタイル偏重主義を想起させる上出来の都市怪談と見ることもできるだろう。これが連作の始まりというなら先行きはさぞやと期待したものだが、結果はあっさり予想を上回り、『45°』はこの作家にしか書けない《不思議》の魅力を放つ短篇集となった。
美意識に縛られ人工的閉鎖的な世界を多く扱ってきた作家が、初めて自縛を解いた結果として新境地を切りひらいた。などと図式的に(陳腐に)言い切っていいものかたいへん迷う。
単行本の目次ページには一見して不穏な印象のタイトルが並ぶ。「11:55」「45°」「/Y」「●」「+-」「W.C.」「2°」「×」「P.」―強く意志的なタイトル群、読みが付されていなければ読むこともできないような、多分に韜晦的な。思い起こせば初期の『野ばら』『夏至南風』『鉱石倶楽部』あたりから、もうずいぶん長く読んできたことだと感慨を持つ。
連作と言っても特別な縛りはなく、少しずつ似通ったテイストの作品が互いに響きあい、さわさわと音の枝葉が茂っていくような按配。ミステリータッチの「11:55」、まとまりのよい佳品「45°」の次あたりからストーリーは次第に錯綜し曖昧に揺らぎながら都市とにんげんとの複雑な関わりを描き出していく。《三つ又の橋》のイメージから次々に謎が派生していく「/Y(スラッシュワイ)」、子どもの世界に双子の入れ替わりというモチーフが混じり込む「●(クロボシ)」など、多く扱われるモチーフは一見普通に見えて謎の多い人物たち、記憶の改竄、双子や男女の入れ替わり、性的曖昧さあるいは性的倒錯。二転三転、あるいは急転直下やって来る結末。そして過剰なほどみっしりと犇(ひしめ)く《現実》の細部描写はファンタジックな異世界を量産してきたことの(幸せな)反動かと思えるほどだ。何となくM・C・エッシャーのトポロジー世界を想起する。あれも大量の具体的な事物の組み合わせから成っているから。
語りのリズムがこれはもうキレキレ、小曲ながら難曲の記譜を思わせる「+-(加減)」が好きだ。「(烏口で引いた五線譜の)インクが乾くのを待つあいだに」「ちょっと古い話を」と語り出される三人の男女の話。幼馴染の三人が熱中するなぞなぞ遊び、それが語りのリズムの基調となり、イメージは一瞬たりとも停滞することなく先へ先へと変転し続ける。脱皮する蛇の眼の鱗、999と九九九、遠い天体から届く光やパルス。「ぼくたちはすでに、三人で可能なペアの組み合わせはぜんぶ試していた。」
「特定の音に特定の色が見える人がいるという。/雨音でも鳥のさえずりでも話し声でも、すべての音が音符に見える人がいるという。/PSR B1919+21の電波パルスをスピーカーにつなぐと、二点ホの音が聞こえてくる。ヴァイオリンの第一弦の音だ。」茂る音のなかから三人の新たな関係が浮かびあがる様は、《耳には聞きとれない音を、わざわざ楽譜に書いた》超絶技巧のよう、などと密かに思う。
ゴージャスなほど多くのイメージが詰め込まれた「P.(ピードット)」。《死神との契約》をテーマとして語られる妙にリアルな都市怪談が、いきなり「着ぐるみのウサギ」に着地していく終盤の幸福な展開が素晴らしい。幸福感、がここで普通現われるだろうか? ところがそうなるのであって、小さく軽やかな着地点(記号のピリオドみたいだ)も好もしい。
長い年月のあいだずっと視界のうちにある作家、というものについては読者としていろいろ思うものだ。長野まゆみという作家については大容量の才能と意志と頑固と偏頗のひと、という印象を持っていたのだが(違うかな)、方向がちょっと変わればたちまち膨大なエネルギーでもって新しい何かが動き出す。絵空事を扱った創作は幼稚で、《現実》に目を向けると褒められるのでは腑に落ちないが、もちろん作家は百も承知のことだろう。変幻自在ぶりは自由にあらゆる方向へ向かう筈、そのように期待している。