中学生の時、校則を破ってウォークマンを持っていったことがある。すぐに担任の教師に見つかり、呼び出されて怒られた。その教師の言い分というのが、そんなに学校でウォークマンを聞きたいのなら、あなたが生徒会長になり、校則を変えてからウォークマンを持って来なさい、というものだった。なんとなく違うような気がしたのだが、表面的にはもっともらしく思えたので、反論できなかった。
一般的に行政というのは、個人の願望を公的に反映させて実行するものということになっている。しかし実態がそううまくはいっていないことも、我々庶民はうんざりするほど知っている。日本に至っては、国民の実生活に影響を及ぼす特例赤字国債法案の是非が、政局の駆け引きの材料とされたのが記憶に新しい。庶民の生活は、公人の都合に振り回されるもののようだ。
本書もそのような公人の都合で、ある社会的弱者が犠牲になる悲劇を描いた物語だ。
物語の舞台はイギリスのある地方自治体。事の発端は六十年程前にさかのぼる。上級自治体であるヤーヴィル地方議会の傘下にあるパグフォード地方自治組織議会にフィールズと呼ばれる住宅団地の管理が任された。しかしこれはパグフォードにとって迷惑な話だった。フィールズの住民は低所得者層であり、莫大な維持費がパグフォードに課せられてしまったのだ。フィールズの劣悪な環境にパグフォードが汚染されつつある、と人々は考えていた。とりわけ怒りをかったのは、フィールズがセント・トーマス・イングランド教会付属初等学校の通学圏内に組み込まれたことだった。これにより知的職業従事者の子供と、低所得者層の子供が混濁することになったのだ。
パグフォードの議員であるバリー・フェアブラザーもフィールズ出身だった。彼の生前は、フィールズ擁護派と反対派の争いはまだ水面下にあった。バリーはセント・トーマス校のボート部のコーチになり、女子部員のクリスタル・ウィードンを可愛がる。クリスタルもまた、フィールズ出身で、薬物依存症の母親の子供だった。
ところがそのバリーの急死によって、事態は変わってくる。議会はバリーの空席を巡って立候補者が乱立する。そうしている間に、ネット上で、「バリー・フェアブラザーの幽霊」と名乗る人物による、議員や立候補者たちに対する中傷の文面が掲載される。そのことによって、フィールズ擁護派と反対派の溝が露呈され、議員たちの陰謀と思惑が渦巻いてくる。同じセント・トーマス校に通っている議員の子供たちはそれに振り回されることになり、クリスタルは一番の犠牲者となる。
犠牲となる子供たちが懸命に生きる姿は実に痛々しい。飲酒、喫煙、淫行、リストカット。子供たちに蔓延するこの非行ともいえる現象は、全ては深い心の闇を忘れるために行ったものだ。しかし大人たちは、ある時は議席を獲得することに夢中になり、またある時は、情交に思いをはせ、そんな子供たちを見ようとはしない。
公的機関は社会的弱者のためになにをしてくれるのか。過去に我々はそれを革命や戦争など、大文字の記憶を凝視することによって知ろうとしていた。しかし、アウシュビッツ、ヒロシマ、フクシマ、と体験していくうちに、全体と個人の関心事の乖離は広がる一方だと感じさせられる。
本書の作者は、大人たちの茶番と子供たちの痛々しい非行を交互に描くことによって、全体と個人の乖離が生む問題を明らかにしている。そしてこのままだと社会は劣悪になる一方だと警告している。
これこそが、現代が抱える大きな問題だ。物語は躍動感のある会話文によって、軽い筆致で描かれているが、本当に伝えようとしているメッセージは実に重く、深刻だ。
最終的にこの物語は、クリスタル・ウィードンの悲劇によって締めくくられている。これによって、大人たちに微妙な心の変化が訪れる。果たして、一人の少女の悲劇が公の議会に一石を投じることになるだろうか。それはわからない。本当にそうなるのか、どうやったらそうなるのか、その答えはまるで読者に委ねられているかのようだ。国家の人間が、一人の貧しい人間にパンを一つでも多くあげる法律を作る社会のしくみはどのようにできるのですか、皆さん考えてみてください、そう作者は読者に問いかけているかのように思う。
かつて作者自身も生活保護を受けながら、ハリー・ポッターシリーズを書き上げた。作者は社会的弱者でありながら、小説家としてそれを俯瞰する目があったのだと思う。社会と自己を同時に見つめる毎日であっただろうと想像できる。
本書は小さな自治体と一つの学校を舞台とした物語だが、このような事件は、世界規模で起きていると感じる。政府が一つの国を巡って戦争をしている間に、学校では一人の子供がいじめに遭い自殺する。それが社会であり、世界なのだ。
ハリー・ポッターシリーズで、ストーリーテラーとして注目された作者だが、本書から窺える作者の普遍的で世界規模の問題提起には圧倒される。またこのような壮大なテーマとの出会いを嬉しく思う。
本書は世界全体の縮図だ。文学というものは、普遍的なものであり、世界をミーメーシスしたものであるということが改めて思い起こされる。また、本書の実に現代的なところは、その模倣された世界観が、個人と無縁なものではなく、個人の最大の関心事であると気づかされるところだ。一人の少女に同情し、憐れむだけで、自然と倦んだ国家を憂えたことになる。本書を読むということは、そういう作業をしたことに、どうやらなるらしいのだ。