自分が突然、死んでしまったらどうなるか。不吉な想像であるが、ふとそんな思いにとらわれた経験のある人は多いだろう。それは誰もがいずれは死ぬ運命を逃れられない以上、あたりまえに感じる不安である。
しかし、いったん死んで生き返ったとしたらどうか。そこまで想像する人はほとんどいない。それだけ人は、誕生と死はその人にとってたった一回きりのことで、死んでしまえばもうその先はないと信じているのである。信奉する宗教によって考えが違ってくることもあるだろうが、少なくともこの現世での生に関しては。
この小説の主人公は、この生き返りをはからずも経験してしまう。製缶会社に勤める男、土屋徹生は三十三歳の働き盛りのときに、会社の屋上から転落して命を落とす。だがその三年後に、再び会社の会議室に現われたのである。本人はその間の記憶がなく、眠りから目覚めたという実感しかない。
生き返りという主題は、古くは神話から現代の小説や映画に至るまで、さまざまな物語でとりあげられてきた。そのなかでこの『空白を満たしなさい』が詳細に描くのは、この驚くべき事態に接したとき、本人と周囲との精神にもたらす深い動揺である。
徹生には妻と四歳になる息子がいるが、息子の方は父が天国に行ったと聞かされているし、妻は夫が自分のせいで自殺したのではないかという思いにとらわれている。どちらも、徹生が再び現われたからといって、ただちに素直に喜ぶというわけにはいかない。会社の同僚や近所の友人も同様で、「復生」をあっさりと受けとめるのは、マンションの隣の部屋の犬と、年老いて認知症がはじまった徹生の祖母だけである。
それはおそらく、犬も祖母も通常の人間関係の外にいるからだろう。この小説の後半でもと精神科医が語るのは、人それぞれを複数の「分人」の集まりとして考える人間観である。一人の人間の中には、誰とつきあうかに応じて複数の「自分」が存在している。それは、「仮面やキャラ」のように表面的に演じているようなものではない。そのとき対面している人、あるいは一人でいるときでも自分の思いを向けている人に応じて、別々の「本当の自分」になっているのである。この考え方は、平野啓一郎がすでに長篇小説『ドーン』(二〇〇九年)で提示したものであり、近著『私とは何か』(講談社現代新書、二〇一二年)でも展開している。
周囲の人々の動揺は、徹生の生き返りによって生活環境が変わることへのとまどいだけではなく、徹生の死に対する思いに満たされていた「分人」を、生きて動いている徹生と言葉を交わす「分人」へと、ただちに組み立て直さなくてはいけないことから来るのだろう。その結果、自己が根柢のところから揺るがされているのである。
だが動揺していると言えば、一番深刻なのは徹生自身である。何しろ死の記憶がないので、自分が事故死なのか自殺なのか、あるいは他人に突き落とされたのかわからない。その謎解きの経過にそって、物語が進行している。
徹生は会社の警備員、佐伯という男が自分を殺した犯人ではないかと疑うのであるが、この佐伯についての描写が、実に不気味な現実感を帯びている。脂肪の塊のような巨体、腕に残る自傷の跡、「幸福」に向ける世人の努力をあざ笑う態度。しかも、徹生自身の心のなかにも、この佐伯に共鳴する「分人」が潜んでいることを、しだいに気づかされてゆく。一人の人間の内にいる「分人」どうしの葛藤は『ドーン』でも扱われていたが、ここでは佐伯という人物を登場させることで、いっそうの深みが叙述に加わった。
しかもこの『空白を満たしなさい』で徹生が直面するのは、死の問題である。「死は傲慢に、人生を染めます」と、登場人物の一人は徹生に語る。人命救助や戦争などのきっかけで名誉ある死をとげると、生前は平凡な行動しか見せていなかった人も、もともと立派な人格者であったかのように、人々の記憶のなかに刻みつけられてしまう。しかし、その死から復活して人生を再開したときは、いったいどうふるまえばいいのか。「復生」した徹生に対する周囲のとまどいも、一回かぎりのはずだった死がそうではなかったという、ぎこちない感じを含んでいるだろう。
この小説のなかでは、徹生だけではなく、何人もの人物が世界中で生き返っているという現象が起きている。その人たちが、生活上の問題を解決するために「復生者の会」を作るという設定がおもしろい。たしかに、いったん死んだ人間が生き返ると、さまざまな不都合が起きるのである。自分の死後に人員が補充された職場には復帰できるのか。再就職しようにも運転免許がない。家族が受け取った生命保険の保険金は返さなくてはいけないのか、などなど。
しかし、こうした日常生活の細かなあれこれも、「分人」の支えとなる媒介物だろう。人は、交渉する他人だけでなく、生活のなかで直面する出来事に応じても、自分のなかにそれぞれの「分人」を育てているのである。その意味で、時にはわずらわしいと思える仕事や家事も、一つ一つが自分を成り立たせているものにほかならない。そうした事物とかかわりながら、他人との関係が自分のなかに「分人」を生んでゆく。死後も周囲の人々の記憶のなかに生き続ける希望が最後に語られるが、それは通りいっぺんの感慨ではなく、おたがいの心のなかでの「分人」の確立として、しっかりした現実味を帯びている。