大叔父の奥さんの遺骨を一族の墓に納めるべく、物書きである「私」(道子)が父と弟とともに東京から佐渡へ旅する表題作。その二年後、弟に介護される寝たきりの祖父母を「私」が見舞う「戒名」。同じ年、九十九歳九ヵ月で逝った祖父の遺骨を納めるべく、伯父とともに「私」がふたたび佐渡に向かう「スリーナインで大往生」。その翌年、今度は祖母と大叔父の遺骨を納めるべく、親族六人とともに「私」がみたび佐渡へ赴く「旅人」。以上四篇からなる連作小説である。
こう書くと随分湿っぽい話に見えるかもしれないが(ただまあ「スリーナインで大往生」という題名からしてそんなことはないとばれている気もするが)、泣き笑いでいえば文句なく笑える小説だ。なおかつ笑うこと/笑わせることは、作品のモチーフでもある。
例えば表題作では、大叔父からユニクロの袋に包まれた遺骨箱を託されて三人が笑い合ったり、港で父が船を指さして「マン・ギョン・ボン!」とリズミカルに叫んだり、佐渡に降り立ってから誰も宿の予約をしていないことにようやく思い当たったり、檀家寺では準備していた礼金を戒名料にすべて使ってしまい、納骨料を各々の所持金からかき集め、有り合わせのティッシュに包んで支払ったりと、さも呑気な道中が繰り広げられる。
しかしながら登場人物の笑える行為をただ抜き出しただけでは、なかなか妙味を伝えるのが難しい。ユニクロの袋に包まれた遺骨箱にしても、その現代アートのような不格好を、というよりは、いかにもあの大叔父ならではの、といった淡白な性格をそこに見て取り三人は笑い合うのだし、「マン・ギョン・ボン!」の叫びにしても、かつて佐渡で暮らした父の、曽我ひとみさん(の帰国会見)に対する複雑な思い入れが示唆されることで、面白味が深まる。要は、面白がるのに必要な前提が頗る多い。そして作中にてその前提が詳細に説明されることで、「私」の家族の人となりや間柄が浮き上がってくる。
準備不足からくる道中のドタバタにしても、「私」と父と弟の三人が顔を合わせるのは稀なことで、一緒に旅をするのも初めてだ、という家族の背景と切り離せない。そんな三人の微妙な関係からくる距離感は、混雑する電車では固まって座るが、空いているジェットフォイルでは二人掛けの座席に三人別々で、しかし縦並びで座るといった描写からも窺い知れる(この印象的な場面をオカヤイヅミは『長嶋有漫画化計画』所収の漫画「佐渡の三人」においてラストシーンに持ってきている)。
今は三十代の「私」がまだ幼い頃、父母は離婚し、「私」は母に引き取られた。父に引き取られた弟は、高校を中退し、父の家を飛び出して祖父母の家に移り、以来引きこもりに近い生活を送っている。その弟が珍しく遠出するのを「面白そうだ」と感じて、「私」は納骨の旅に参加した。
基本的には馬が合う父と弟であるが、弟が介護している寝たきりの祖父母についての話になると、少しぎすぎすした雰囲気になる。祖父母が死んだら、弟の生活は立ち行かなくなるかもしれないし、家の相続をめぐって父と弟が争うことになるかもしれない。わが子の更生に目を向けずに来た父に対し、弟が含むところがあると感じている「私」は、父と弟を遠くから「はらはらしながら、だが間違いなく面白がって」見ている。
そういった深刻な家庭の問題が表に顔を出さぬよう各々気を遣いあう、深刻さと裏腹の(それゆえにおかしみも増す)デリケートな笑わせ合いとして、道中での呑気さは語られてゆくのであった。「面白い」ことを第一義とする「私」の視座から。
ところで、長嶋作品の読み手なら右のような家族関係を読み、何かしらピンとくるかもしれない。父母が離婚し母に引き取られた主人公という点では『猛スピードで母は』と設定が同じだし、父と子のとぼけた関係は『ジャージの二人』っぽいし、祖父母の介護をする弟が登場することからは『ねたあとに』が想起される。あとこれは家族関係からの連想とは違うが、その名もズバリ「佐渡の全員(または一人)」(『かばん』二〇〇九年十二月号)と題された句の数々などもある。
なかでも本作と並べたとき、最も気になってくる作者の過去作は「夜のあぐら」(『タンノイのエジンバラ』所収)という短篇である。父の後妻が実家を売り払うのを阻止するため、弟の一案で二人の姉が、かつて住んでいた実家に忍び込み、土地の権利書の入った金庫を盗み出そうとするその作中でも、次女にあたる語り手「私」は、本作と似た境遇にある、ニート生活を送る弟の行末を懸念していた。加えていずれの作品とも、とにもかくにも「私」が家族に対し「楽観」していることを強調して幕を閉じている。
ただし「夜のあぐら」と「佐渡の三人」を併読した際、状況設定の相似以上に目を引くのは、前者の劇的な場面、展開に比べ、後者があまりに何も起こらないという点だ。前者には重い金庫を姉妹が持ち上げて盗むアクションシーンがあるが、後者では姉弟が墓の重い蓋石を持ち上げる程度。また、弟が親にもった屈託の象徴として、前者には弟が実家の壁に空けた大きな穴が登場するが、後者にはそのような象徴物は出てこない(穴といえば墓穴が一寸覗けるだけである)。劇的な一連を通じて「楽観」に至る前者の「私」に対し、後者の「私」は、佐渡の旅館で起こった極めて他愛ない出来事を理由に、家族の行末を「楽観」している自分を再確認する。こう見ていくと本作が、家族の問題をとりたてて何も起こらない場面や展開でいかに転がすかという挑戦のようにも思えてくる。
表題作に続く三篇にも劇的な場面は訪れない。親族の訃報にも慣れ、佐渡への納骨の旅も日常化し、何も起こらない感じは本格化する。その一方でどんどん書きためられてゆくのは、深刻な問題を打ち消すように為される家族の「ウケること」の数々だ。些細な笑い話を蓄積し、厚みをもって家譜とかえる。物語化された家族ではなく、家族そのものを描く、野心的な家族史である(因みに本書の題字は愛妻との日々を撮影し続けた写真家・荒木経惟。適任だと思う)。