いかにも舞城王太郎らしい奇想の横溢した作品集である。一見、でたらめな思いつきを起点に果てしなく暴走するように見えながら、一寸先でどう転ぶか分からない物語世界を確固として支えているのは、驚くべき稠密さで疾駆する話体の力である。今ふうの若者の語彙と口調を自在に取りこみ、しかし、全体に切迫して野蛮な呪術的リズムを脈打たせる文体のマジックは、他の追随を許さない。その独創性において比較しうるのは、野坂昭如と町田康くらいではあるまいか。ともかく特異なスタイルの面白さで読まされ、あれよあれよというまに物語の彼方の摩訶不思議な宙吊りの場所へと運ばれてしまう。端倪すべからざる作家というほかない。
本作は「五芒星」と銘打たれ、次の五作からなる。①「美しい馬の地」、②「アユの嫁」、③「四点リレー怪談」、④「バーベル・ザ・バーバリアン」、⑤「あうだうだう」。
五芒星とはいわゆる星形の五角形のことだが、本作の配置はそれとはすこし違って見える。左上から左回りに①→②→④→⑤と配置して正方形を作り、①—④と②—⑤の対角線の交点に、書物では真ん中に置かれた③を配するのが妥当であろう。
本作の①②④⑤に共通するテーマは、世界の理不尽にどう対処するかという倫理的な問いである。そして、対角線で結ばれる①と④はその主題を自然の法則を逸脱しない範囲で扱い、男を主人公とするのにたいし、これと対称をなす対角線で結ばれる②と⑤は、同じ主題を「神様の類い」が現れる超自然的な世界に転位し、女が主人公になる。
それでは、この美しい正方形の星座の真ん中に位置する③は何かといえば、表題の「四点リレー」という言葉と作中に挿入された図形が示すように、この短篇集全体の正方形の構造を凝縮して表す、紋章学における「紋中紋」、文芸用語でいう「ミザンナビーム」になっている。
③の題材は、大きな正方形の部屋の四つの角にそれぞれ走者を配し、一人が一辺を走って次の走者にリレーするという遊びで、暗闇のなかでこのリレーをくり返していたところ、いつのまにか走者が一人増えていたという怪談がタイトルの由来である。そして、この怪談には、人智をこえた超自然現象、合理的に説明できる出来事、名探偵が超絶論理で解明する謎という三種類のバージョンがあたえられる。いずれにしても、正方形の部屋で四人の走者のなかから存在しないはずの新たな走者を現出させるという物語は、正方形に配置された四つの短篇をあわせて作品集の新たな相貌を際だたせようという、本作の意図を表す「紋中紋」のように見えるのだ。
さて、世界の理不尽という主題がどのように描かれているか、それぞれの短篇に即して見てみよう。
①では、世界の理不尽は流産として現れる。主人公の青年は突如として流産という現象に激しい怒りを抱く。まだ生まれてもいない命がいきなり奪われる。その現象の理不尽な悲惨さ。主人公はそれへの怒りを誰かれかまわずぶつけ、孤立していく。彼の怒りの激烈さは無意味に鬱陶しく、その純粋さは無条件にわれわれの心を抉る。なぜ世界はかくも悲惨で不条理な罪や悪を生みだすのか?
その理不尽は、たとえば旧約聖書のヨブを襲う悲惨の連続と質を同じくしているといってもいいだろう。しかし、最終的に①の主人公は、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と語ったヨブにも似て、「どこにも罪はない。悪もない。悲しみだけがあるべきところに僕は怒りを持ち込んでいたのだ。そしてそれは完全に間違いだった」という悟りに到達する。流産をめぐるこの誇張された寓話は、人の病いや死、事故や地震といった災厄を前にした精神の転変ドラマとしても読みかえることが可能である。
この短篇と対をなす④では、世界の理不尽は、この上なく些細で、馬鹿馬鹿しい出来事をとおして顕現する。だが、主人公がようやくその事実に気づくのは、結末の二ページに至ってなのだ。主人公は日本で警官をしていたとき犯罪者の体を鍵でぐちゃぐちゃにひき裂いたことがあり、アメリカに渡ってからも密猟者の心臓を無慈悲に撃ちぬいた。この理不尽な暴力衝動の底にあったものは何か? かつて友人からバーベルにされてもち上げられたことだった。なんとナンセンスな奇想!
無機物として扱われ、感情を無視され、言葉を否定された経験が、主人公の精神に深い亀裂を刻み、感情の麻痺の引き金になるのだった。そのことを知った元警官は銃を捨て、携帯電話を捨てて、山のなかに入っていく。①の主人公のように晴れやかな悟りに達するわけではないが、④の元警官も世界の理不尽を受けいれる端緒に着いたかのように見える。なんとも不思議な余韻を残す結末である。
②では「神様の類い」として人間の男の姿をした鮎が登場し、⑤では「神様みたいなもん」として、様々なものに変身して人を呑みこむ空っぽの箱「あうだうだう」が出現する。鮎はヒロインの姉と結婚して子供を孕ませ、あうだうだうは人を呑みこみその人生を悪いほうに変えてしまう。それはやはり世界の理不尽の具現なのだ。この二篇に出てくるヒロインと周囲の人々はそれらの魑魅魍魎を相手に苦闘するが、その戦いはけっして悪を撲滅する死闘にはならない。悪は叩く必要があるが、殺してはならないからだ。また、悪と戦うには、戦う側も悪に匹敵する重さの負の感情を抱えこまねばならない。だから、悪や理不尽との戦いには限りがなく、その結果はつねに宙吊りにされる。②の結語にあるとおりだ。
「皆がいろいろ頑張ってきて、今も頑張っている。これからも頑張っていかなければならない。/何故なら何も決まっていないからだ、本当に」
舞城王太郎は骨髄に徹したモラリストなのである。