最果てアーケード

小川洋子

1650円(税込)

思い出を弔う場所

間宮 緑

 思い出という言葉の響きは「過去」や「記憶」のような整頓された言葉とは違って、ほんのりと香るような物語の切れ端を予感させる。ふと現在のことを忘れ、思い出のなかを漂うようにして町を歩いてみたら、目に映るのはどんな風景だろう。いまの風景と思い出の風景が交わって、いつとも知れない時が流れ始めるかもしれない。

 そんな風景の中にひっそりと入口を設けている小さなアーケードが本書の舞台になる。煤けた偽物のステンドグラスの屋根から差す、ぼんやりした光に彩られた狭い路には、レース屋、義眼屋、輪っか屋、紙店、勲章店など、さまざまな商店が軒を連ねている。そこに陳列されたささやかな品物から、本書の物語は一つずつ生まれてゆく。

 その物語を語るのは、いつも犬のベベと一緒に中庭にいる「私」だ。世界で一番小さなアーケードは、そこで生まれ育った「私」にとって「何かの拍子にできた世界の窪み」に見える。大家であった父を亡くしてから「私」はそれぞれの店の品物を配達するようになり、ベベをつれてアーケードの内外を行き来しながら、訪れる人々の思い出に触れてゆく。

 アーケードに入っているのはみな、家の近所や賑やかな市街地には多分ないだろうけどもしかしたらどこかの町の隅にあるかもしれない、というような風変わりな店ばかりだ。いらなくなった衣服からレースを切り取って陳列するレース屋をはじめ、アーケードの店主たちは、ちっぽけな使い古しの品物たちを偏愛しながら、品物と客のあいだで結ばれる新たな関係を最も大切に扱っている。誰のものともわからない思い出を宿した品々は、途切れた関係を整理するための物なのかもしれない。その佇まいは、客の大切な思い出の欠けてしまった部分を、店主が商品棚から見つけ出して手渡してくれるかのようだ。だが客たちがアーケードを訪れるのは、遠く去ってしまった思い出と再会するためとは思えない。むしろ、かれらは思い出を弔うために品物を探しているように見える。

 ある客はレース屋に遺髪を託す。亡き妻の髪が、編み師の手によって模様を持った品物へと加工される。編まれたレースは、そのままの髪よりも持ち主の思い出に寄り添うものになる。ただ身体の一部だった物が、今は亡き人の心を偲ばせる特別な装飾品へと姿を変える。そのすべては儀式ではなく、品物を巡ってのやりとりだ。だから大仰な言葉もポーズもいらない。そして編み師にとっては日々の中の仕事であるために、客が残してゆく思い出は編み師自身の普段の心に絶えず接触する。

 配達係である「私」は、店主と客とのあいだで品物を仲介するニュートラルな立場といえるかもしれない。だが「私」自身も、忘れがたい思い出と「私」だけに特別な価値がある品物を密かに持っている。「私」は人々の思い出の断片に触れることで、抑えていた自分の思い出を少しずつよみがえらせてゆく。

 子供の頃アーケードの読書休憩室で一緒に時間を過ごしたRちゃんは、「嘘のお話」を斥け、「本当のお話」を求めて、読書室に置かれた百科事典を「あ」から「ん」までページの順番通りに読み進めようとする。そしてRちゃんが子犬のベベに読んで聞かせる「アッピア街道」の項目から、「私」はその街道をRちゃんやベベと一緒に旅する光景を空想する。その空想が、「私」のアッピア街道の思い出になる。

 Rちゃんは「嘘のお話」をただ嫌っているのではない。児童向けの小説をたくさん読んだ上で、ハッピーエンドを拒絶する。物語の主人公が手に入れる終止符代わりの幸せを良しとしないRちゃんにとって、百科事典に書かれていることは「本当」でありながら「お話」なのだ。

 思い出という実体のないふわふわしたものが、実体を持つ品物を触媒にして、言葉となって語られるとき、言葉を得た思い出は、その瞬間に空想という糸で編まれてゆく「嘘のお話」になる。「私」が耳にするさまざまな思い出もやはり空想(うそ)なのかもしれない。百科事典を読むRちゃんが見ていたアッピア街道と、「私」が思い出すアッピア街道がおそらく異なるように、思い出は本質的に孤独なものだ。二人のアッピア街道を結んでいるのは、物語でも交わされた会話でもなく、ただRちゃんが読んだというだけの百科事典なのだから。

 中庭にいる「私」はアーケード全体から響いてくる声を聞き、店の中のやりとりを見渡す。昔訪れた客に偶然再会したり、こっそり後を追いかけて行ったりさえする。それでも、誰かの思い出をしっかりと掴むことはできない。どんな秘密や過去を聞いたとしても、あとに残されるのは小さな品物と、それにまつわる思い出の香りだけだ。偽りのない思い出とは、どうあがこうと「本当のお話」にはなれないものなのかもしれない。

「私」は、偶然出会った他人の思い出から自分の思い出を引き出したり、すでに姿を失った父をいまの風景の中に見出そうとする。「私」のいない場所で起き、あとに何も残らなかった父の死は、「私」が語ることのできない「お話」の外の出来事になってしまったのかもしれない。「私」とさまざまな思い出との出会いは、弔うべき父の「お話」が組み立てられてゆく過程にも思える。

 常に前を見て進んでゆけるのなら、思い出はたまに懐かしむだけでいい。けれど、しばしば人は思い出をうまく弔うことができず、誰かと分かち合うこともできずに、胸の内に空隙を広げてゆく。逃げ込む場所があれば、その先は行き止まりだとわかっていたとしても、きっと立ち寄ってしまう。そこは日常を逸脱した異世界ではなく、すぐ傍にあって、その気にならなければ入ってみようとさえ思いつかない、空想のあふれる世界の窪みだ。人が物語の本を開く動機もまた、品物を求めてドアを開ける客と似通っているように、少しずつ思えてきた。