自分ひとりで記憶をまさぐってみても絶対に思い出せないのに、誰かに話しているとふと思い出すということがある。しかも、別にそれを思い出すために話していたわけではなく、全然関係のない別の話をしている最中についでのように思い出す、いや、はっきり思い出し切らないにしても、思い出しかけるということがある。ひとたび思い出しそうになってみれば、なるほどそういうことがあったようだとその記憶の周辺がやんわりと刺激されるのだが、そうでなければ、そういうことがあったということ自体、一生思い出されることなく記憶の底に埋没していたにちがいないような些細な「なにか」である。しかし、些細ではあっても、たまたま思い出してみれば結構、重要な事柄で、これを思い出さなかった一生がありえたことを思うと少しそら恐ろしくなるような、そういう「なにか」である場合もままある。だが、そんな大事なことなのに、自分ひとりで考えているかぎり、思い出せない。思い出しそうにさえならないのだ。それは、ただこちらが誰かに何かを話している場合に、つまりこちらのとりとめもない話を聞いていてくれる人がいる場合にのみ、ふと、ついでのように思い出しそうになるのである。それも、別にその聞き手が何かを聞きだそうとあれこれ上手に質問し探りを入れて誘導してくれるからではない。極端なはなし、相手は何も言ってくれなくてもいいのだ。ただ聞いてくれてさえいれば、その聞き手に何か、全然関係のない、とりとめもない話を延々としているだけで、その「なにか」を思い出しそうになるのだ。なぜだろう。
本書において熊埜御堂(くまのみどう)氏は、いわばそんな風にしゃべる。むろん、用件がないわけではない。離婚した元妻と彼女にひき取られた息子が住んでいる場所を探して連絡を取りたいという用件が一応あるにはあるのだ。だから、手がかりとして「細長い帯みたいな、古いアルミのプレート」を持参して、探偵のような、何でも屋のような事務所を開いている枕木さんを訪ねて来たのである。しかし、枕木さんにその用件を切り出そうとしてみてすでに熊埜御堂氏本人が自覚しているように、「なにか頼みごとをしに来たという感じがしない」のだ。じっさい、妻と息子の居場所をつきとめてもらいに来たわけではないのである。
しかし、枕木さんは心理カウンセラーのように熊埜御堂氏の話に耳を傾ける。いや、むしろ、今では絶滅危惧種のような職業になっている精神分析医のようにと言ったほうがいい。理論的には難解な精神分析も、実践的には、よい聞き手となって患者に喋らせることで治癒をもたらすということを基本にしているようだからである。枕木さんも、依頼人を問いつめるのではなく、もっぱら聞き手にまわる。しきりにメモを取っているが、依頼人の話の内容よりも、それを話す声の抑揚や話し方の癖に注意を向けながら熱心に耳を傾けているのだ。
熊埜御堂氏の話自体が自由な連想によって横へ横へとズレてゆくのに加え、枕木さんの問いかけや脱線、雷雨に見舞われて事務所に駆け戻って来た事務の郷子さんの介入によって何度も中断され、その都度、話の方向が転々と変わる結果、どこがどうなってこんな話をしているのかと自問せねばならない事態にしばしば陥るのだが、枕木さんはよき聞き役に徹することで、話の流れを停滞させず、さらなる脱線を促す。他者に話しているから思い出すというケースのちょうど真逆のケースもあるからだろうか。相手の、どこへ脱線してゆくか分らない、ダラダラした話に耳を傾けていると、その話とは関係なく、やはりふとついでのように、「なにか」を思い出しかけることもあるのだ。それもやはり、「自分ひとりで掘り出そうと思ってもできない」が「他人の話を聞いているうちに」思い出される「なにか」なのである。
むろん、そういうことだけなら珍しくもない。「しかしその記憶の点が流れになりそうな気配や予感を感じさせる機会はそうあるものじゃない、それは飲み屋で話が流れていくのとは似て非なるものです」。じっさい、各々の雑談がパッチワークのように編み上げられていくと、思い起こされた複数の「なにか」が交差して「流れになりそうな気配や予感を感じさせる機会」が訪れるのだ。
枕木さんと郷子さんが、熊埜御堂氏の話を聞くうちに「ビスケット事件」を思い出し、それについて断続的に話すうちに、屋根に設置する風見鶏(そのシリーズ名が《燃焼のための習作》)に言及するや、今度は熊埜御堂氏が或る夢を思い出すのだ。「猟銃を持った男」が崖の中ほどから崖下の裏庭で遊んでいる犬を狙っているのだが、おもむろに銃口を水平に上げて納屋の屋根の上の「なにか」を撃ち爆発音とともに何かが飛ぶという夢であり、屋根上のその場所には、かつては「小さな鳩舎」があったという。このように、屋根上の風見鶏(「対(むか)い鳩」と呼ばれる紋にデザインが似ているらしいことが後でわかる)と「小さな鳩舎」とがそのちぐはぐな類似性においてニアミスしたとき、再びあの「細長い帯みたいな、古いアルミのプレート」が封筒から取り出され、この意味不明の金属破片が急速に意味を帯び始めるのである。
戦争で通信のために使われた伝書鳩の足環の一部であるのかどうかはついに分らない。だから、安直に戦争に話をつなげて無理やり解釈すべきではない。それよりも大事なのは、このとき、熊埜御堂氏が話をしながら、とても重要な「なにか」を思い出しそうになっているということ、持ち込んだ「頼みごと」はもうどうでもよくなりかけており、むしろその「なにか」こそが探しものだったかのように帰って行くということだろう。同じことは、枕木さんと郷子さんにも言えるのだろう。いや、脈絡のない雑談のゆるいパッチワークに延々と付き合って来た我々自身、その瞬間には「なにか」を思い出しそうになるのだ。
文字どおりの意味で、端倪すべからざる試みである。