道化師の蝶

円城 塔

1430円(税込)

読者を書きかえ続ける世界文学

金子邦彦

「道化師の蝶」は昨年六月、国際会議に向かう飛行機で読み始め、とまらなくなってしまった。硬質でありながら独特のリズムのある音楽性の高い文章は、心地よく次のページを誘うのである(あまりの心地よさが子守唄として作用する場合もあるようだけれども)。張り巡らされたユーモアに微笑しながら次の章にすすむと、前章は実は……という構造が見えてくる。しかし、それで解決、というのでなく、そこには玄妙なずれがある。眩暈のような感覚を経て最後のページに至った時に広がる、イメージの美しさ。そして、読み終えて冒頭に戻ると、どうも一周まわったあとでは違った世界が見えている。変わったのは自分だろうか、作品なのだろうか。

 かつて一世を風靡した、ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という著書がある。登り続けているはずなのにもとに戻る階段、そして永遠に登り続けて感じられるバッハのカノンに想を得て、思考という不思議なループをめぐり続ける論考である。なぜかこの書名に文学者は入っていない。物語の中の物語の中の……という構造はシェヘラザード姫の昔からあるけれども、それらは予定調和的に収斂しているからだろうか。人形を中に入れるとその姿が変わる魔法のマトリョーシカ――そして大きな人形を開いて最初の小さな人形をとりだすとその顔が変わって見える――こういう不思議なループは本作を嚆矢とするのかもしれない。

 さて、国際会議というのは、研究者たちが新しい着想を求める場である。本作読了後、会場につくと、着想を捕えるべく小さな網を持って皆が飛びまわっているようにみえる。「さてこそ、国際会議に向かう飛行機で読むに限る」なのかしらと思った次第もあり、帰りの飛行機で、最初からもう一度読み始める。すると見えてくる景色がまた違うのである。

 著者は、彼の筆名の由来ともなった拙著『カオスの紡ぐ夢の中で』の解説の中で「読者を書きかえることで傑作と思わせる機能を持った小説」について思いをめぐらす。そう、読書により書きかえられてしまう我々の目には、「道化師の蝶」は読む度に新たな姿を見せる。私1→作品1→私2→作品2→私3……という変化は永遠に続くのであろうか。それとも安部公房が『第四間氷期』で未来の予測とそれに影響される人々について描いたように、どこかに収斂していくのであろうか。まだ三度しか読んでいない私には、その判定はできない。もし、読むごとに、この風景の変化がずっと続くのであれば、まさに無人島に持っていく一冊、となる。

 時に目にする、すぐ読める本への賛辞に違和感を覚えた方はいないだろうか。同じ値段なら、その本を楽しめる時間が長い方がよいはずなのに。実際、一度聴いたらそれで十分というCDは誰も購入しそうにない。私たちはすぐ読めて消費されてしまうことで書籍の売り上げ促進を願う出版社と書店員に飼いならされてしまっているのではないだろうか。

 さて、読むことが変化をもたらし続ける「道化師の蝶」に対して、「これはペンです」の、あの有名な叔父さんは「何度も書かれ直すような小説」を語る。この両作が出会ったところには、読んで書くという「翻訳」による作品の変化がある。そして本書に収められたもう一篇の「松ノ枝の記」は、まさに翻訳による変換の連鎖が主題である一方で、「松枝ではまるで侯爵めく」と三島の『春の雪』への言及があるように、「不可能恋愛」の当事者にかかわった第三者が語る、という系譜にも属する。ただ、その不可能性は、社会通念によるものではなく、もっと人間精神の根源に関わる、どうしようもないものである。そして、それに決然と立ち向かって旅立つ主人公(たち)の気高い姿。それに匹敵するものを、と言われれば、思い浮かぶのは、「Boy’s Surface」で著者が描いた、博士を愛してしまった数式(写像)くらいであろうか。ただ、そちらで要求された、数学の美しさへの感情移入は本作では不要である。精神医学上特殊な状況ではあるにせよ、主体はあくまでも人格なので、透き通った痛切の念が読者の誰をも貫く。そして、『春の雪』から始まる「豊饒の海」四部作が最後に「松枝さんという方は、存じませんな」となるように、「松ノ枝の記」では、忘却という旋律が、ピアソラの同名曲のように流れ続ける。人類の拡散と出会いと言う文明史を背景にして。

 さて、三島を挙げたのなら、「道化師の蝶」についてはナボコフに触れるのが書評者の務めであろう。ところが、文学者ならぬ身、食わず嫌いでほとんどナボコフを読んでいないのである。つまり、そういうことは関係なく、この小説はただただ楽しめるのである。逆にそれなら、とナボコフを手に取ってみると、これが意外と(?)面白い。というわけで、円城作品には他書購買促進という効能もあるようだ。出版社も書店員の方もご安心めされたい。

 著者が理系研究者出身であることで、作品が論理的とか難しいとか言われることがあるようだ。ただ、それは多くの場合、単なる錯覚に思われる。むしろ理系研究者出身という特徴は、違う点に表われているのではないだろうか。一つは、新しい世界の見方の提示に自覚的なこと。それは理論物理学者ならみな目指す、世界の違った見方の発見である。もう一つは、「世界性」。理系の研究者ははじめから英語で論文を書き、世界の研究者に評価されてナンボという立ち位置で勝負している。実際、著者の小説はそのデビュー作から常に世界文学の中の一冊という様相を帯びている。

 昨年、「文學界」から依頼された小松左京氏追悼文に「安部公房のような想像力と世界性を持った作家のかくも長き不在。(…)今やっと、そうした新たな作家があらわれ、熱い注視を浴び始めている」と書いた。私たちは、世界文学の作家の誕生という稀有な祝祭の場にたちあっているのではないだろうか。