安部公房の都市

苅部 直

1870円(税込)

近代日本の内なる辺境

青木純一

 本書の著者である苅部氏の専門は日本政治思想史なのだが、これまで和辻哲郎や丸山眞男を論じてきた経歴からすれば、安部公房を対象として選んだことに何ら不自然な感じはしない。私はむしろ、氏がどこまで本格的な作家論、あるいは文学評論をものし得るか、そのお手並み拝見という気分で注意深く読ませてもらった。読後の率直な感想を言えば、論の展開において十分に面白かったが、結末に向かう論旨の総合において物足りなさが残ったというところである。ここではその面白さと物足りなさの原因を、あくまでも私個人の私的な観点からだが、指摘していきたいと思う。

 面白さは主に本書の前半、安部公房の作品に底流するモチーフの連関の解明に関わる。冒頭でまず『笑う月』刊行時の著者の私的記憶の確認のために、同書の新聞広告とその広告の載った読売新聞の紙面が紹介されるのだが、ここから読者の関心は自然と安部における夢のモチーフと『笑う月』刊行当時(一九七五)の社会状況との両方に向けられることになる。そして、その交叉点に浮かび上がる「都市」のモチーフ――これが本書の中心的主題である――が、第二章以降『燃えつきた地図』の分析を通じて追究されてゆく。この追究は戦後の都市化とその内部に潜む辺境の問題を超えて、さらに広い歴史的な様相を帯びることになる。具体的に言えば『榎本武揚』の分析から現われる歴史記述と幻視される「共和国」の問題、『第四間氷期』におけるユートピアとディストピアの両義性、さらに『けものたちは故郷をめざす』の執筆背景にある満洲での安部の体験へと連鎖してゆく。とはいえ、著者の関心は安部の創作モチーフの起源を伝記的・政治史的な事実に還元することにはない。おそらくそのような作業は苅部氏にとって自家薬籠中のものであったろうが、本書の中では伝記や政治史的な記述は控えめに抑えられており、著者は安部の想像力と思考の特質により深い注意を払おうとしている。このことは、安部における「内なる辺境」の思想の幻視的性格(現実と無関係という意味ではないが)を考慮すれば、正当だと私は考える。読者もまた、本書前半の緩やかに進む叙述に沿いながら、安部の主要なモチーフの連関を、彼の想像力に内在する視点からも納得させられると思う。

 物足りなさに関しては、主に本書終盤の『砂の女』と『箱男』の作品論を読んだ印象に関わるのだが、ここではあえて大風呂敷を広げる仕方で論じてみたい。苅部氏はその作品論においても、「穴ぼこ」や「ゴミ捨て場」といった安部の言葉で示唆される都市の内なる辺境の様相を一貫して追跡している。しかし、この「内なる辺境」の思想は、単に安部の創作の一つのモチーフではなく、創作全体を包み込んでいるいわば前提であり出発点である。ならば立論としては、著者はまずこの思想を一旦前提として受け入れてから、個々の作品におけるこの思想の展開を見定め、その上で終盤に思想自体の再検討に取りかかるべきであっただろう(そもそも安部の創作自体がそのような循環の構造を内包してはいないか)。だが本書の終盤の作品論は、前半で明らかにされたモチーフの再確認に留まっている。結果として、人類学的に一般な境界―辺境(マージナル)論の図式と大差のない結論から踏み出せず、なぜ安部公房という戦後文学者を今取り上げたのかという苅部氏側の動機がぼやけてしまっているように見える。ただし、この点は単なる立論の設計ということでは収まらない問題を含んでいるかもしれない。なぜなら、安部を含め戦後文学の思考それ自体が、現在の日本人にとっても今なお近代の「内なる辺境」であり続けているからだ。

 敗戦の体験を踏まえ、人間の生活上のあらゆる場面を問題化し俎上にのせた戦後文学は、その核心において人間存在の変革(生存条件の更新)までをも射程に入れた永久革命の要素を含んでいる。その永久革命の仮想の到達点――そのような地点を苅部氏が思想的に認めるかどうかはわからないが――から見れば、近代それ自体がディストピアにしてユートピア、すなわちユートピアを幻視可能にするディストピアという両義性を持つことになる。安部公房の場合、この両義性は「内なる辺境」の思考に顕著に現われるのであり、しかもそれが民主主義に対する安部の想像力にも関わる。本書に引用されている安部の文章を借りるなら、それは「いったいデモクラシーの極限というものがどういうものであるか、人間がそれに本当に耐え得るのかどうか」という問題であり、「民主主義の原理というものをとことん突き詰めてみると、意外と全員が箱男になってしまう」が「同時に誰ででもあり得るということによって主体性をまた取り戻す」可能性の幻視である。実は本書が最後に触れるのがこの問題なのだが、著者はそれを十分に展開せず、「(…)身体全体の営みを通じて、交流の方法を探ってゆくこと」という漠然とした見解で批評を打ち切っている。だが、いわゆる戦後民主主義的な精神風土を成立させてきた社会的・政治的基盤が消滅しつつある現在だからこそ、政治史にも詳しい著者に安部の民主主義への想像力の再吟味を展開して欲しかった。いや、要は、戦後文学に対する著者の現在のスタンスをより明確にしてゆく仕方で安部を論じて欲しかったのだ。また代わりに外界との身体的交流へ論旨を延長するのであれば、作家論として『他人の顔』と『密会』(両作品共、身体的に身近な他者である「妻」の失踪を題材とする)の分析は必須だったのではなかろうか。

 やや不躾な意見も書いた気がするが、これも本書の内容に触発されたからであり、また身勝手な言い方だが、著者と同世代である私が時代に対して抱いている危機感の故でもある。一書評家としては、本書の続編の執筆を強く望んでいる。